上野東照宮

上野は元々、藤堂高虎の屋敷地でしたが、南光坊天海大僧正がこの地を拝領し、寛永2年(1625)に徳川家祈願所・東叡山寛永寺を創建します。寛永寺は現在の上野公園の広さを持つ広大な境内を持ち、数多くの伽藍が建立されましたが、寛永4年(1627)にその中の一つとして造営されたのが、上野東照宮の前身「東照社」でした。正保3年(1646)、朝廷より正式に宮号が授けられると、5年後の慶安4年に社殿を造営替えしています。これが現存する社殿となります。

上野東照宮の創建に大きく携わったのが、この土地の所有者であった藤堂高虎です。家康公が亡くなる直前、天海と共に枕元に呼ばれた高虎は「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」との遺言を受け、自身の土地を寛永寺、東照宮のために献上しました。現在も上野東照宮の社の中には、高虎像、天海像が祀られているとのことです(非公開)。

寛永寺
東都名所 上野東叡山全図〈国立国会図書館蔵〉

…さて、ここで「上野」という地名と藤堂高虎について少し触れたいと思います。藤堂高虎は江戸城築城において、大きく貢献しており、家康公からの信任が大変篤かったと言われます。慶長13年(1608)高虎53歳の時、伊予今治20万石から伊勢安濃津(以後、津と表記)と伊賀上野32万石へ転封となります。津と上野はそれぞれ陸上、海上における交通の要衝で、家康公は「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」という遺言も残されたとされます。一説には、東京における「上野」という地名は藤堂高虎の拝領した「伊賀上野」から取られているとも言われる程です。上野公園には現在も藤堂家の墓所があります。しかし、動物園の中にあり参拝することはできません。江戸時代、動物園の場所には寛永寺の子院「寒松院」があり、その中に藤堂家の墓所がありました。しかし、現在、寒松院は鶯谷方面へ移動しており、墓所だけが今も動物園の中に残っているという状態ですが、現在も当院が藤堂家の墓所をしっかりと守っております。尚、「寒松院」という名は藤堂高虎の御法名です。


上野東照宮の見どころは、参道沿いに、各大名から寄進された夥しい数の燈籠や牡丹園、期間限定の御朱印などもあるそうです。また、樹齢600年の御神木・大楠や左甚五郎作と伝えられる唐門の「昇り龍」「降り龍」など…。仕事運や勝負運のパワースポットとしても人気があります。