大奥を作った名プロデューサー「春日局」①

春日局の数奇な人生

春日局
天正7年(1579)~寛永20年(1643)

江戸の人物列伝第1回目は春日局について取り上げていきたいと思います。
春日局は大奥を作ったことで知られ、その後の幕府の体制に大きな影響を与えました。しかし、三代将軍・徳川家光公の乳母として江戸城に入るまでの春日局の生涯は決して平坦だったものではなく、波乱に満ちた人生を歩んでいます。

春日局年表

春日局は天正7年(1579)、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘として生まれ、「福」(以下「福」)と名付けられました。ところが、その3年後、山崎の合戦で光秀が羽柴秀吉に敗れると、父である利三は捕えられてしまい、福は母方の実家である稲葉家に引き取られることになりました。

斎藤利三

ここで、父・斎藤利光について、少し触れておきましょう。元は「美濃三人衆」の一人・稲葉一鉄に仕えていましたが、主君との折り合いが合わず、稲葉家を離れ明智光秀に召し抱えられます。高い教養と優秀な武将であった利三は光秀から重用され、明智家の筆頭家老として活躍します。光秀の人事能力は大変評価されていますが、利三はとても良い上司に恵まれたと言えるでしょう。この利三が光秀に仕えたことが、後の福の人生に大きく影響を与えることになります。

稲葉正成

稲葉家に引き取られた福は稲葉正成に嫁ぐことになります。正成は養父である重通と共に、小早川秀秋に仕え、小田原征伐や朝鮮出兵等で従軍しています。関ケ原の合戦では、徳川家康と内通し小早川秀秋を東軍に寝返らせました。
福は正成との間に3人の男子(正勝、正定、正利)を授かります。跡取りにも恵まれて、福と正成との関係は順調に見えますが、一方で正成は愛妾を多く抱えていました。福は非常に嫉妬心が強かったと言われ、その愛妾の一人を刺し殺し、正成と離縁してしまいます。
跡取りを多く作ることがお家安泰に繋がり、当主が妾を持つことは当時、ごく当たり前のことであったので、福が嫉妬心から妾を殺害したということになると、当時としては、「常軌を逸し」た行動と言えるかもしれません。逆に、もし福がこの時、稲葉家の女性として生涯を全うしていたら、後の大奥というシステムは現れなかったかもしれません。
稲葉家から離れた福は京都へ上りますが、そこで運命的な出会いを受けることなります。

粟田口刑場跡〈国土地理院地図〉

上図は京都市東山区から山科区にかけての地図です。このあたりには東海道が通り、「粟田口」という京への出入り口となっていました。京へ出た福はこの粟田口で家光乳母募集の高札を見つけ、江戸城に仕えることになります。
ここにはかつて街道沿いに「粟田口刑場」が設置されており、福の父・斎藤利三が磔刑となった場所です。父が処刑された場所で、乳母募集の高札を見つける…これは偶然のようであり、どこか因縁めいたものを感じます。一説には、幕府が福を呼び寄せるために粟田口で高札を立てたと言われることもあります。

粟田口刑場跡付近

粟田口刑場が設置されていたとされる場所は山科区と東山区の境界に位置しています。往時は、京へ上る旅人たちが日ノ岡峠を越えていった場所ですが、現在は三条通りとなっており、車がスピードを上げながら通り過ぎていくといった印象です。付近に刑場を感じさせるような遺構はなく、京都の外れといった長閑な印象を感じます。
「粟田口」は京の七口の一つで、大変多くの人々が行き交っていました。このような場所に晒し場や高札が立つことは当時は非常に多かったと考えられます。実際に、街道沿いにはそのような重要な施設が設置されている場所がとても多いです。福も父親の因縁のある粟田口に引き寄せられるように行ったのでしょう。

江戸城

福が幕府で働くことになったころ、まだ、徳川政権は過渡期の中にあり、城内のシステムも確立されているような時代ではありませんでした。江戸城内も政務を行う「表」と将軍のプライベートルームである「奥」とに分かれており、後の大奥というシステムはは存在していません。福は城内における将軍嫡子の「御世話役」と言ったところでしょう。

崇源院(お江与)

当時、江戸城において絶対的な力を持っていた女性は、二代将軍秀忠正室「崇源院(お江与)」でした。彼女もまた数奇な人生を歩んでいます。織田信長・妹「お市」と浅井長政との間に生まれた、いわゆる「浅井三姉妹」の一人で、浅井氏が滅亡すると織田家に戻り、秀忠に嫁ぐまで二回も結婚をしています。政略結婚に翻弄された人生であったと言われており、故に実子に対する思いは強いものがあったことでしょう。

徳川忠長

後の三代将軍となる家光は、秀忠の次男(長男・長丸は2歳で夭逝)でしたが、お江与は弟の忠長を溺愛していたと言います。その待遇は、年を追うごとに歴然とするようになり、幕閣内でも時期将軍を忠長とする空気になっていきます。この頃、代替わり後の待遇を考えて、多くの人々が忠長を取り巻くようになっていったことを考えると、家光の置かれた立場というのは、さぞかし厳しいものがあったことでしょう。それは乳母である福とて同様で、家光の「母親代わり」とまでなっていた福は、自分たちが置かれていた状況を強く感じていたことは想像に難くありません。

…ここで福は大胆な行動に出ることになります。

駿府城

福はお伊勢参りという名目で、大御所・徳川家康のいる駿府へ向かい、次期将軍を家光にするよう直談判をします。女性の外出が自由に許されなかったこの時代、しかも、非公式で大御所と面会をするのですから、福としては自分の進退をかけた大勝負に出たことになるでしょう。
家康からしてみたら、福の行動に驚かされたことでしょう。直談判を受け、家康は次期将軍を家光にするよう、秀忠、お江与に働きかけることになります。

徳川家康

ここで、一つ疑問が生じるのが、大御所の家康と、将軍実子とはいえ、まだ乳母という立場であった福とが直接会って話をすることができうるのか、という点です。
江戸城紅葉山文庫の「松のさかへ」によると…

「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局、三世将軍家光公也」

とあります。意訳すると、「竹千代(家光)を産んだのは春日局である」という内容になります。さらにその家光は、福と家康との間に産まれた子という説まであります。もし、これが真実であるとすると、幕府の歴史において大きな意味を持つことになります。いずれにせよ、このあたりはもう少し検証が必要になるでしょう。

…さて、大御所・家康が江戸へ向かい、秀忠、お江与に、「将軍は長子が継ぐべし」と意向を伝えると、家光、忠長の立場は逆転します。そして、家光は三代将軍に、忠長は駿河大納言と、それぞれポジションが与えられますが、二人の運命はここで大きく分かれ、結果的に忠長は不行跡を理由に切腹させられることになります。秀忠から家光へ、江戸幕府過渡期に福という女性がキーマンになったことは間違いないでしょう。「反逆者の娘」から江戸城に仕えることになり、将軍擁立に貢献した福の功績は非常に多きものがあるのではないでしょうか?

秀忠没後、将軍の座を引き継いだ家光の乳母・福は、最高権力者として大奥を作りあげていくことになります。

次回に続く…