大奥を作った名プロデューサー「春日局」②

春日局と側室たち

広大な皇居の一角に位置する東御苑…ここは春夏秋冬行楽できる憩いの場として、これまで多くの人たちに親しまれてきました。東御苑へ入園する出入口は、大手門、平川門、北桔橋きたはねばし門の三カ所、多くの人は大手門から入りますが、北桔橋門の迫力ある石垣を見ながら入るのも良いし、梅の時期であれば平川門から入り、梅林坂を上がるのも良いと思います。
そして、東御苑はかつての本丸、二の丸、三の丸を含む一帯にあたりますが、九代将軍家重の時代の庭園を元に復元された二の丸庭園は、昭和天皇が武蔵野の雑木林を再現するよう発案された木々の奥に広がる庭園空間が、回遊式庭園の趣を超えた独特な風情を感じさせます。一方で、本丸御殿があった場所は芝生広場が広がっており、中雀門から見る風景は、都心の中でこれだけ見通しの良い場所はここだけだろうと思います。日がな一日、この広場で日向ぼっこをしているような人も多く、とても長閑な時間が流れています。そんな場所に江戸幕府約260年間の中枢があったことに思いを馳せると何とも言えない気持ちになりますが、中でも春日局が作った大奥はその半分近くの面積を持っていました。

写真1 皇居東御苑 本丸跡

徳川家光が将軍に就任したのが元和9年(1623)、春日局は「将軍様御局」として大御台所・お江与の元で奥(大奥)を取り仕切ることになります。言わば、お江与に次ぐ「NO.2」といったところでしょうか。元は「反逆者の娘」という立場から、一度嫁ぐものの、江戸城に仕えるために離縁をし将軍嫡男の乳母となった…その経歴は、「叩き上げの人生」と言っても過言ではないと思います。この異例とも言える出世の背景には、前回お話をした家康と関係を持ったとか…他に様々な説がありますが、ここでは事の真相はさておき、春日局の人間性そのものを見てみましょう。

父・斎藤利三は大変優秀な武将でありながら、自分がより輝く場所を求めて稲葉家を辞し、明智光秀に仕えています。言わば、「転職」を経て自らの能力を発揮させたその生き方は、稲葉正成の正室という立場から江戸城に仕える女性へ転身するという生き方に共通する部分があるのではないでしょうか?春日局の安定を良しとはせず、変化と理想を求めるというバイタリティーは、後に大奥最高責任者として力を発揮するための原動力となったことでしょう。

表1  家光の主な側室たち(黄塗は子をもうけた女性)

表1は家光の側室たちです。お江与の没後、大奥において絶対的な権力を持つことになった春日局が行った仕事の一つとして、将軍家光の側室探しが挙げられます。家光は、五摂家の一つ「鷹司家」から孝子を正室として迎えていますが、二人の関係は非常に険悪であったと言われます。夫婦としての生活は皆無と言ってもよく、後に大奥からも追い出され、江戸城吹上での別居生活を強いられてしまいます。
生まれも生活環境も異なる武家と公家の夫婦が上手くいかないという例は、長い歴史の中でも多々見られることがありますが、家光の場合はその傾向が如実に表れていると思われます。一般に、家光は「男色」「女嫌い」というイメージがありますが、このような人格になった理由として、家光の幼少期の経験が大きいのではないかと考えられています。生母であるお江与は、家光よりも、弟で利発な忠長の方を寵愛していました。

家光のことを記録した「大猷院殿御実記附録」にも、

「御弟國千代(忠長)の方は、御幼稚並に超えて聰敏に渡らせ給へば、御母君崇源院殿(お江与)には殊更、御鍾愛ありて…」

とあります。まだ幼い家光は、母が優秀な弟ばかりを贔屓して、自分には愛情を注がれないことをひしひしと感じていたことでしょう。このように母親から本来受けるべき愛をもらえなかったことが、その後の家光の女性に対する考え方に大きく影響したことでしょう。

春日局はこの家光の性格を十分熟知していたと思われますから、いかに家光の心を開く女性を見つけるかということが至上命題となってきます。表1を見ると、家光との間に子を授かった女性が6人もいます。この数字は、いかに春日局が家光の心を開く女性を探すのに奔走したのかを物語っていると言えます。

徳川家綱
図1 徳川家綱

後に四代将軍となる家綱は、お楽の方の実子です。お楽の方は大奥に入る前は「蘭」という名前で、出自は諸説ありますが、下野国都賀郡高島村の農民・青木三太郎利長の娘として生まれたというのが有力のようです。利長は、江戸で旗本・朝倉家に仕えていましたが、ある時、禁猟とされていた鶴を狩ってしまった罪に問われてしまいます。父の死後、家族ともども江戸へ出て、母は永井家の家臣・七沢清宗と再婚…清宗は永井家から独立し浅草で古着商を営むようになりますが、お楽は実家の仕事の手伝いをしている際に浅草寺へ詣でていた春日局の目に止まり、大奥で働くことになります。奥女中として仕えたのち、家光の寵愛を受けるようになり、家光にとって初の男子を授かることになります。

お楽は罪人の娘から将軍生母になったという大出世を遂げたことになりますが、この人生は春日局にも通じるところがあります。春日局がお楽をスカウトし大奥で重宝したのも、自分と重ね合わせるところがあったのかもしれません。この女性であれば、あの家光を任せるのに足ると考えたことを思うと、お楽は見事に春日局の期待に応えたと言えます。現に、家光はお楽をとても大切にし、お楽の故郷の歌を気に入っていたと言われているので夫婦仲は非常に良かったと考えられます。家光にとって「公家のお嬢様」よりも「庶民的な女性」が合っていたように思います。

桂昌院
図2 桂昌院

五代将軍・徳川綱吉生母は玉です。「桂昌院」という号で認知されている方も多いと思います。桂昌院は京都出身で、父は関白・二条光平に仕える北小路太郎兵衛宗正とされていますが、一説には、西陣織屋の娘とか、はたまた八百屋の娘と言われることもあります。お万の方に仕えたあと、春日局に見出され、家光の側室になりました。

綱吉が将軍に就任すると、大奥において絶対的な権力を持つようになり、護国寺創建に大きく携わりました。

図3 徳川綱重

他に、甲府宰相(甲府藩主)徳川綱重の生母になったお夏の方などもいます。綱重の実子が六代将軍・家宣です。この家宣を含めると側室から将軍となる子が3人も出たということになります。元々、城の中において「プライベートな空間」としての「奥」を、多くの女性を召し抱えることのできる「大奥」という概念に作り上げた春日局の功績は非常に大きかったと言えます。

「家」が大事であった封建社会。鎌倉幕府のように、将軍の血統が三代目で潰えてしまい、その後、幕府の舵取りは執権・北条氏に取って代わられたのに対し、徳川の名で260年間もの長きに渡って日本を牽引することができたのも、春日局が築いた大奥の存在がその一翼を担っていたと言っても過言ではありません。大奥はその後、江戸城内でさらに影響力を持つようになり、時には幕府財政を圧迫する程になるまでに大きくなっていったと言います。時の御年寄によって、大奥は様々な色を出し、それが幕府を揺るがす事件に発展することもありました。

春日局が大奥作った大奥…次回はシステムについて、さらに掘り進めていきたいと思います。

次回へ続く…