大奥を作った名プロデューサー「春日局」④

春日局のゆかりの地

先日、所用があって水道橋へ行ってきたのですが、プロ野球が開幕したということもあって、東京ドーム周辺は御贔屓球団のユニフォームを着ているファンたちがそこここにいました。コロナの状況がまだ芳しくないので、まだ入場制限はありますが、スポーツ熱は相変わらずといった感じです。早く、安心してスポーツを楽しめる日がくることを願うばかりです。

出世稲荷神社
写真1出世稲荷神社

そんな野球で盛り上がる東京ドームの近くに春日局ゆかりの地があることは意外と知られていないかと思います。出世稲荷神社はラクーアと白山通りを挟んだ反対側の住宅地の中に鎮座しています。この場所は、元々、春日局が拝領した屋敷地で、寛永七年(1630)に屋敷神として祀られていました。春日局が「裏切者の娘」から大奥最高責任者に出世したことで「出世稲荷」と称されるようになったと言います。

図1本郷湯島絵図(後楽園界隈)〈国立国会図書館蔵〉

図1は江戸時代の後楽園界隈です。「水戸殿」は水戸藩上屋敷で、東京ドーム、東京ドームシティ、小石川後楽園などが設置されています。矢印が「春日町」で春日局の拝領屋敷があった場所です。現在は「本郷一丁目」という町名ですが、付近の都営地下鉄「春日駅」や「春日通り」が、かつての名残を残しています。春日町の周辺は旗本屋敷が多く、このあたりは武家地であったことがわかります。

写真2春日局像

出世稲荷神社から春日通りに出て本郷方面へ歩きます。「本郷三丁目駅」から約5分程度行くと、春日局像が現れます。この場所は麟祥院で春日局の墓所です。
麟祥院は寛永元年(1624)、春日局の隠棲所として創建されました。広さ一万坪、寺領三百石の朱印地を拝領し、秀忠から賜った御明御殿を殿堂としていました。明治時代に入ると、仏教哲学者・井上円了が境内の一棟を借りて「哲学館(後の東洋大学)」が開創されました。

春日局墓
写真3春日局墓

境内奥の墓地に春日局の墓があります。墓石は無縫塔で四方から穴が開いていますが、これは春日局が「黄泉の国からも天下のご政道を見守れる墓」という遺言によるものとされています。自分亡き後の幕政や大奥の行く末を非常に心配していたのでしょう。そんな気持ちが伝わる墓石です。

昌清寺
写真4 昌清寺

再び後楽園へ戻ります。「忠弥坂」を上がり住宅地を抜けると昌清寺しょうせいじがあります。元和元年(1615)、お江与が自害した忠長の菩提を弔うために、忠長の乳母・お清の方を開基として創建されました。

昌清尼(お清の方)墓
写真5昌清尼(お清の方)墓

お清の方は、大老・土井利勝の養父・土井利昌の娘です。忠長の附家老・朝倉宣正の正室となった後、忠長の乳母になっています。忠長はとても聡明でお江与のご寵愛を受けており、兄の家光ではなく忠長が時期将軍の候補と目されていました。もし忠長が将軍になっていたら、お清の方が歴史に名を刻んでいたかもしれません。
駿河大納言・徳川忠長は才気のみならず、容姿端麗で大伯父・織田信長に似ていることもあり、お江与からは大変溺愛されていました。春日局が家康に直訴したことにより、次期将軍は家光となりましたが、甲府二十三万石で藩主となり、後に遠江、駿河を加増され、駿遠甲五十五万石を領することになります。
ところが、徐々に乱行が目立つようになり、「領地百万石」か「大坂城城主」を求めるようになってきます。家光上洛の際には、東海道大井川を越えるのに船橋を架けましたが、元々、大井川は軍事上の理由で架橋は認められておらず、逆に家光の不興を買っていまう結果になります。忠長の乱行はさらにエスカレートしていくことになり、駿府の浅間神社近くにある賤機山で猿狩りを行い、1200匹の猿を殺害してしまいます。
結果的に、忠長は改易され上野国高崎で預けらると、最後は切腹してその生涯を閉じます。
忠長切腹までの背景は、春日局が裏で関わっていたことが十分に考えられます。春日局としては、家光が将軍になると忠長とその一派が邪魔になると考えたのでしょう。幕政を安定させるために、忠長の排斥を企てたと思われます。

お清の方の墓は、堂々と「天下のご政道」を見守っている春日局と比べ、墓地の隅にひっそりと忠長の菩提を弔っているように感じます。「大奥」という権力争いの様子を物語っているような…静かな佇まいの墓です。

後楽園から日本橋川沿いを九段下方面へ…
ホテルグランドパレスを横に見ながら、坂を上がっていくと築土神社の鳥居が見えてきます。

写真6築土神社

築土神社はビルの谷間に鎮座しています。高層ビル群に囲まれていて、全く目立たないので、恐らく、このあたりで働いている人たちでも知らない人が多いのではないでしょうか?
築土神社は平将門にゆかりのある神社です。今から約1100年前の天慶3年(940)、坂東で反乱を起こした将門は、藤原秀郷によって討たれ、京で晒し首となります。その後、将門の首を密かに持ち去り、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現大手町付近)の観音堂に祀り、「津久戸明神」としたのが始まりです。室町時代に太田道灌によって江戸城の乾(北西)に社殿が造営され、天文二十一年(1552)に田安郷と呼ばれた九段坂に遷りました。

寛永11年(1634)4月17日に記された「要用雑記」によると…

「津久戸は御城内氏神につき、大御台様御繁昌の時分は春日殿御取次ぎを以って御上様方へ御札御守、差上げ候」

とあります。築土神社は江戸城北の丸の守り神であったので、春日局が当社に参拝し、お守りを将軍の妻子に届けています。

江戸城
写真7江戸城

春日局が活躍をした大奥は、天守台のあたりにありました。大奥は大きく三つのブロックに分かれていて、御台所の住居である「御殿向」、奥女中が起居する「長局向」、大奥の管理事務所「御広敷向」とありました。「御広敷向」は大奥の中でも男性が出入りできる場所です。

図3駿河台 小川町絵図〈国立国会図書館蔵〉

春日局は江戸城北の丸に住んでいました(現科学博物館付近)。春日局以外にも、忠長、天樹院(千姫)といった人たちの屋敷もあったと言います。八代将軍吉宗の時代に御三卿が創設されると、北の丸には田安家と清水家の屋敷が設置されました。御三家との違いは、自分の城を持たず、あくまでも将軍家の「家族」という立ち位置でした。吉宗の血をついだ子たちが当主となった家なので、世継ぎがいないときなど、御三卿から将軍を立てることができました。また、当主が死去したり他家の養子に出てしまったり、相続するべき男子がいなかった場合は当主不在の空き屋敷とされ、新たな将軍子弟が誕生したときに御三卿を相続させていました。大奥と同様、将軍世継ぎを絶やさないようにするためのシステムということになるでしょう。

三崎稲荷神社
写真8三崎稲荷神社

また、家光ゆかりの地としては水道橋駅東口を出てすぐの所に、三崎稲荷神社があります。当社の歴史は古く、仁安年間(1166~1169)もしくは、建久年間(1191~1199)とも言われています。当初は本郷にあったとされていますが、何回かの移転を経て、明治38年(1905)に現在地に遷っています。三崎稲荷神社は家光から篤い崇敬を受け、以来、登城をする大名は必ず参拝に訪れ心身を清めていたことから「清めの稲荷」と呼ばれています。

図4春日局

春日局が戦乱の世に生まれ、徳川家が天下を取り、これから泰平の世に向かおうとする、まさに時代の転換期だったのではないでしょうか?江戸幕府は約260年間という長い間続いていきますが、その盤石の体制の礎を作った一人が春日局であったと思います。
春日局は幼少期、父親が反乱に加担したため、不遇の時期を送りますが、この頃の経験が、その後の春日局の考え方、行動に大きな影響を与えていたことは言うまでもありません。
コロナ禍で、人の行動様式や価値観が完全に変わった現代だからこそ、時代の過渡期を生きた春日局から何か学ぶことがあるのではないかと思います。

おしまい。