平将門と北斗七星の謎①

平将門の生涯

東京の街には多くのパワースポットが存在しますが、「金運」「健康」「悪疫退散」「出世」等々…様々なご利益を求めて、多くの人々が各所の寺社へ参拝に訪れます。昨今の御朱印ブームも手伝って、都内の「札所めぐり」は大変人気があります。江戸の昔も、人々から自然発生的に生まれた「流行り神信仰」というのが存在したことを見ると、人の心の中にある「信仰心」はいつの時代も変わらないことを感じます。

写真1 将門首塚

東京都内で今も尚、強いパワーを放っている存在として「将門首塚」があるのをご存知の方も多いかと思います。場所は大手町オフィス街の中心に位置し、首塚だけがひっそりと時間が止まったように鎮座している印象です。首塚は、人気のパワースポットであり、その敷地内はいつも花が手向けられています。

図1 将門 北斗七星

東京都内に残る将門ゆかりの場所は、上記の首塚を含めて6カ所の神社があり、それを繋ぐと「北斗七星」になると言われます。これは、将門が信仰した「妙見菩薩」を表していて、今も将門のパワーが東京を守護しているという都市伝説が残ります。今回は、少し切り口を変えて「平将門と北斗七星」というテーマで進めていきたいと思います。

図2 平将門 年表

平将門の生涯は、未だ解明されていない点も多く、生年は延喜3年(903)とも、寛平元年(889)とも、元慶8年(884)とも言われます。出生地も、下総国豊田郡、または下総国相馬郡とされており、その前半生は謎に包まれている部分が非常に多いです。

将門は16歳で京に上り初めて職に就いています。「滝口武者たきぐちのむしゃ」という蔵人所くらんどどころに属する天皇の随兵で、清涼殿を警護する役職でした。「滝口」とは清涼殿北東にある落水を指し、その近くに詰所があったことに由来します。これは、天皇をお守りする、いわば「SP的」な仕事で射芸に秀でた者が就任していました。もし、将門がこのまま滝口武者を全うし、禁中で出世していたとしたら、その後の「将門の乱」が起こることはなかったでしょう。

将門が禁中に仕えて約10年が経った頃、職を辞し、坂東へ帰郷しています。一説には、父・良将が亡くなったことが理由とされていますが、ここが将門の人生のターニングポイントになったと言えます。故郷へ戻った将門は良将の遺領をめぐって、親族間の争いに巻き込まれてしまいます。

将門系譜
図3 将門 系譜

将門のルーツは桓武天皇まで遡るとされています。桓武天皇の孫(曾孫とも…)の高望王が息子たちを伴って坂東に下向し、盤石な勢力を築きました。いわゆる「桓武平氏」の祖とされる人物です。当時の坂東は京に比べ、まだ未開の地といった様相でしたが、将門の父・良兼が自領を発展させました。その土地をめぐり、将門は叔父である良兼、国香と対立することになります。

図4 父・良将 遺領

父の遺領は下総国猿島郡と豊田郡です。この場所は、軍事、産業の拠点で、古利根川が付近を流れ、河川交通要衝でした。また、当時の関東地方一帯は牧場が多く、今の東京の地名に、「馬込」や「駒込」のように馬に因むものが存在します。父の領内に広大、かつ良質な牧場を有していました。そして、資産価値が高かったものとして、「製鉄」を行っていたことが大きいでしょう。これらの要素は、関東を統治する上では必須の条件で、父の遺領を制することが関東における盤石な地位を築くことができると言っても過言ではありません。

将門はこの地を巡って叔父たちと対立することになり、それが後の将門の乱へと繋がっていくことになりました。

図5 新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図〈国立国会図書館蔵〉

親族との戦いに勝利した将門の勢いは関東一円に広がり、圧倒的な力と影響力を持つまでになりました。それを国難と判断した朝廷は将門追討に動くことになります。その際、追討を命じられたのは、藤原秀郷と平貞盛でした。

藤原秀郷は「三上山の百足退治」で知られていて武芸に長じた軍人でした。元々は下野国の在庁官人(地元出身の役人)でしたが、隣接する上野国国衙と諍いを起こし、一時、罪人として流刑を受けています。ところが、その武勇を買った朝廷は秀郷に将門鎮圧を命じました。

天慶の乱(平将門の乱)の際の両軍を比較すると、将門軍が約15000人であったのに対し、秀郷軍はせいぜい4000人程度、圧倒的な兵力差がありました。この時の将門は東北を併吞するほどの勢いを有しており、関東以北を傘下に治める独立国家を形成するくらいであったことでしょう。…とは言え、将門軍は編成されて時間があまり経っておらず、実際に将門の指示通りに大軍が動くことができたかというと疑わしいと考えられます。また、秀郷軍との戦いがあるにもかかわらず、東北の兵を一度国元に戻してしまっています。将門の心の中に隙があったのか、はたまた鎮圧軍を過小評価していたのか、定かではありませんが、軍勢の多くが関東から離れてしまったことが敗北の要因になったことでしょう。

将門を討つことができた藤原秀郷が、当時、英雄として崇められたことは言うまでもなく、その後、武家の棟梁として多くの家系を輩出しています。先述の「百足退治」といった英雄譚が生まれるのも、やはり将門との戦いで勝利したことで、その武勇がより大きく広まっていったことを象徴しています。
一方で、戦いに敗れ逆賊となった将門は処刑され、その首は京で晒されることになります。もし、父の訃報がなく、清涼殿に勤める役人として生涯を全うしていたとしたら…罪人から英雄になった秀郷と、その人生を比較すると対照的な道を歩むことになってしまったと感じます。

図6 芳年武者无類 相模次郎平将門〈国立国会図書館蔵〉

戦いに敗れた将門の首は京に運ばれ七條河原で晒されましたが、その後、首が胴体を求めて東国へ飛来し、現在の首塚がある場所へ落ちたとも、首桶に入れられて持ち去られ、武蔵国豊嶋郡上平河村津久戸(大手町付近)の観音堂に祀られたとも言われています。父の遺産相続争いから関東を巻き込む戦いに発展し、激戦の末、敗れてしまった将門の怨念は、ずっと東国に根付いてしまい、その力が今も尚、生き続けていると伝えられます。

成田山新勝寺
写真2 成田山新勝寺

成田山新勝寺は、将門調伏の寺院として知られています。関東には将門に由来する寺社は数多く存在しますが、新勝寺は将門の乱に関わる霊場として、多くの人々が参拝に訪れます。将門との戦いが起こると、時の朱雀天皇は密教系の僧侶たちに将門調伏の祈願を命じます。密勅を受けた一人・寛朝僧正は高雄山の護摩堂に安置されていた空海作の不動明王像を報じて総国に下りました。上総国尾垂ヶ浜おだれがはま(山武郡横芝光町)に上陸し陸路で下総国公津ヶ原に入ると、将門調伏の不動護摩供を奉斎しました。その場所が現在の成田山新勝寺となります。このような由緒から、将門を祀る神田明神、築土神社といった神社と新勝寺を同時に参拝することは忌避されてきたと言われます。

このように、将門に関連する信仰、習慣は現在も残っており、その存在の大きさを改めて実感します。次回以降は、将門にまつわる「御霊信仰」「妙見菩薩」などの観点から、現在、どのように解釈されて崇められているのか…見ていきたいと思います。

次回へ続く…