平将門と北斗七星の謎③

~東京に残る将門ゆかりの地(前半)

前回、「将門とその信仰」について話してきましたが、ここでは東京に残る「将門と北斗七星」の神社について取り上げていきたいと思います。

図1将門と北斗七星

東京の将門ゆかりの地を線で結ぶと北斗七星を形成すると言われます。これは将門が信仰した妙見菩薩を意味していることは、前回もお伝えした通りですが、北斗七星が江戸の町全体を守っているような印象を受けます。

図2徳川家康

徳川家康は江戸を日本の中心とするべく、江戸に幕府を置き全国支配の拠点としました。そして、幕府は政治、経済の面で日本のトップに君臨するための町づくりを行います。幕府の天下普請は30年以上にもわたる一大事業となりますが、その中で陰陽道、風水、五行思想などといった観点から、町の礎を造ることになります。

主な江戸の結界

  • 徳川家菩提寺:寛永寺(江戸城鬼門)、増上寺(江戸城裏鬼門)
  • 四神相応(江戸城中心):北・玄武(本郷台) 東・青龍(隅田川) 南・朱雀(江戸湾) 西・白虎(甲州街道)
  • 五行思想:黒・龍泉寺(目黒不動尊) 白・金乗院(目白不動尊) 赤・南谷寺(目赤不動尊) 青・教学院(目青不動尊) 黄・永久寺、または最勝寺(目黄不動尊)

等…

都内の将門ゆかりの地
図3都内の将門ゆかりの地

北斗七星を形成する将門ゆかりの地は、台東区、中央区、千代田区、新宿区などにあります。各社が位置する場所は、繁華街、オフィス街、住宅地と様々な特色を持ちます。

写真1鳥越神社

鳥越神社の祭神は「日本武尊」で、元々は「白鳥明神」と称していました。現社名になったのは、前九年の役の際に源義家が「鳥越」と改称しています。当社由緒書きには、将門のことは触れられていないのですが、「日本武尊」と「白鳥」に将門との関連を見出すことができます。
能褒野で亡くなった日本武尊は、その魂が白鳥となって北天の方向へ飛び立ったという伝承が残っています。この「北天」とは妙見菩薩を指していると言います。この妙見信仰を匂わせる「白鳥」という名と、北斗七星の一角を形成する立地から、将門との繋がりを意味していると考えられます。

将門家紋と鳥越神社神紋
図4将門家紋と鳥越神社神紋

また、鳥越神社の神紋を見てみると、将門のそれと大変似通っています。「七曜紋」と呼ばれる紋章で、妙見信仰を表す紋章であることから将門との関連も見えてきます。七つの星は北斗七星を表していると考えられます。さらに鳥越神社・宮司の鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の末裔とも言われています。

兜神社

兜神社の祭神は倉稲魂命うかのみたまのみことで、「鎧稲荷」と称していました。この付近に将門の兜を祀った兜塚があったと言われます。将門との戦いに勝利した藤原秀郷が、その首を京に運ぶ際に供養のため兜を祀った塚を建立したことに始まると言います。明治になって、渋沢栄一らが出願よって誕生した東京証券取引所の関係者によって、鎧稲荷と合祀されました。

将門首塚
写真3将門首塚

将門首塚はオフィス街の中心部にあります。再開発で新しいビルが立ち並ぶ大手町エリアの中にあって、今も静かに時を刻んでいるような印象を受けます。この場所は将門の首が胴体を求めて飛来し、その首が落ちたと伝えられています。その後、天変地異が多発したため、遊行二祖・他阿真教が板碑を立て将門を供養したところ、将門の霊は鎮まったと言います。

図5 将門古蹟考〈国立国会図書館蔵〉

明治40年(1907)の「将門古蹟考」によると、首塚の大きさは高さ約20尺(約6m)、周囲15間(約27m)とされています。関東大震災で消滅してしまいましたが、元は古墳だったとも言われています。

御江戸大名小路絵図
図6 御江戸大名小路絵図〈国立国会図書館蔵〉

将門首塚は、酒井雅楽頭(姫路藩)上屋敷内にありました。江戸城の正門にあたる大手門の目の前に位置します。江戸時代以前には、首塚の近くに神田明神や芝崎道場(日輪寺)がありましたが、天下普請で江戸城の目の前が大名屋敷に当てがわれたため、それぞれ移転しています。しかし、首塚だけは動かずに何百年もの間、現在地に鎮座しています。その間、首塚を移動、撤去させる動きがありましたが、その都度、不可解な事件、事故が起こったと言われます。

首塚にまつわる事件・事故

  • 福沢諭吉「雨師風伯うしふうはく
    明治10年(1877)9月15日、神田祭が台風で中止となり、人々は祭神から外された将門の祟りであると噂しました。それから7年後、福沢諭吉が時事新報でこのことを取り上げました。この中で福沢諭吉は見出しに「漫言」と銘打っており、どちらかと言うと冗談のような形で取り上げています。実際、台風は抜け、翌日は無事に神田祭は開催されていることからも、将門の祟りであるという根拠は薄いのでは…と考えられます。
  • 大蔵省の祟り
    関東大震災(1923)後、倒壊した大蔵省の仮庁舎を建てる際に首塚を撤去したことで起こった事件です。撤去から3年後、大蔵大臣・早速整爾せいじ他、その関係者たちが相次いで急死するということがありました。
    しかし、仮庁舎建設について、もう少し掘り下げてみると、首塚の跡地に建設を決めたのは、当時の大蔵大臣・井上準之助で、しかも、昭和4年(1929)に大蔵大臣に再任しています。首塚が原因で亡くなったとされる早速整爾との因果関係を考えると、多少のズレが生じているようにも感じます。
  • モータープール事件
    進駐軍が被災した首塚の場所にモータープール(軍用駐車場)の設置を計画したことに始まります。ブルドーザーが首塚に迫ったとき横転事故が起こり、運転手が亡くなりました。これを将門の祟りとして、結果、首塚が撤去されることなく残されました。
    これに関しては、工事の際に近隣の住民たちがマッカーサー司令部に首塚保存を懇願し、実際、首塚の撤去は中止されいます。また、当時、ブルドーザー事故がありましたが、横転事故であったかどうかのエビデンスがなく、事故原因は不明のようです。
写真4神田明神

神田明神は、平将門、大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみことを祀ります。延享2年(1309)、他阿真教が首塚を建立した際に、付近にあった神田明神に将門を合祀しました。江戸城を建築の際に、正門を現在の大手門の場所にしましたが、目の前に首塚と神田明神がありました。そこで、元和2年(1616)、神田明神を江戸城の鬼門の方角に遷座させました。恐らく、幕府としては、将門に対する畏れの気持ちがあったのかもしれません。新たに遷座した場所は、北斗七星の一角を形成していることからも、将門の霊力を使おうとする幕府の意図が垣間見れるように感じます。江戸初期の町づくりと将門との関連を見ると、江戸の成り立ちが違った角度からもうかがい知れます。

後半は、筑土八幡神社、稲荷鬼王神社、鎧神社と藤原秀郷ゆかりの神社を中心にご紹介していきたいと思います。

次回へ続く…