平将門と北斗七星の謎④~東京に残る将門ゆかりの地(後半)

写真1筑土八幡神社

筑土八幡神社の祭神は、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇です。「筑土」とは、筑紫・宇佐神宮の宮土を祠の礎にしたことに由来するとされています。

写真2築土神社

将門との関連では、九段下にある築土神社が関わっています。当社の由来を見ると、将門の乱後、その首を武蔵国豊嶋郡上平河村津久戸(現大手町)の観音堂に祀り、津久戸明神としたことに始まると言われます。その後、太田道灌が江戸城の乾(北西)に社殿を造営、天文21年(1552)に上平河村内の田安郷(現九段坂上からモチノキ坂付近)へ移転しました。江戸時代に入り、何度かの移転を経て、筑土八幡神社に合祀されました。
かつての江戸には「つくど」という地名が3カ所(津久戸、築土、筑土)あり、かつ筑土八幡神社が北斗七星に含まれる場所にあることを考えると、神田明神と同様に意図的に移転してきたと考えられるのではないでしょうか?

写真3稲荷鬼王神社

稲荷鬼王きおう神社は歌舞伎町と新大久保のコリアンタウンの間に鎮座します。大久保の百姓・田中清右衛門が熊野の鬼王権現を勧請してきたのが始まりで、後に同じ大久保の稲荷神社と合祀されて「稲荷鬼王神社」となりました。「鬼王権現」とは、「月夜見命つくよみのみこと」「大物主命おおものぬしのみこと」「天手力男命あまのたぢからおのみこと」の三神を祀る神様ですが、現在、熊野には鬼王権現は存在せず、祀っているのは当社だけとなります。稲荷鬼王神社の節分会では、鬼を悪者とはせずに、「鬼は内、福は内」としています。
「鬼王」とは、将門の幼名「鬼王丸」と繋がりますが、神社との由来の中で将門は登場しません。しかし、北斗七星の一角を担っていることなどを考えると謎が残る神社です。

写真4鬼の水鉢

鳥居の脇に、不思議な形の水鉢が置いてあります。この水鉢は、元々、加賀美某の屋敷内にありましたが、文政の頃(1800年前半)、毎夜のように水音が聞こえるという怪異が続きました。この水鉢が怪しいと思い斬りつけたところ、水音はしなくなりましたが、家人に不幸が続いたので、稲荷鬼王神社に預けられました。水音の正体は、台座の鬼の仕業をされていて、今でもこの水鉢には斬り跡が残っているとか…。水鉢を斬りつけた刀は「鬼切丸」と呼ばれ神社に奉納されましたが、その後、盗難に遭い、今は行方不明になってしまいました。

写真5鎧神社

東中野の住宅街の中心に鎮座するのが鎧神社です。祭神は平将門、日本武尊、大己貴命、少彦名命で、藤原秀郷が将門の鎧を祀ったとされています。一説には、秀郷が将門を討ったあと、重病にかかってしまいました。将門の祟りと考えた秀郷は薬師如来を祀る円照寺に参拝し、その鬼門にあたる場所に鎧を埋めて祠を建てたところ、病気は立ちどころに回復しました。

写真6円照寺

今でも、鎧神社のすぐ近くに円照寺があります。この界隈はとても野趣ある場所で、江戸時代は行楽で訪れる人々も多かったと考えられます。境内には「右衛門桜」という名木があり、江戸初期には「江戸三大桜」の一つとされていました。

図1藤原秀郷ゆかりの神社

ここまで将門の北斗七星を形成する史跡を紹介してきました。幕府は江戸を鎮護するために将門の霊力を利用しようとしましたが、その力はあまりにも強力でした。その力を野放しにしてしまえば、江戸に祟りが襲い、良からぬことが起こってしまうと考えたのかもしれません。そこで、水稲荷神社と烏森神社という、将門を攻略した秀郷ゆかりの神社を結ぶことで、その力をコントロールしようとしました。上図を見ると、両社の位置関係は北斗七星を南北で挟んでいて、二点を繋ぐと、柄の部分を分断しています。このような結界を作ることで、パワーバランスを保てるようにしました。
それでは、この二社を見ていくことにしましょう。

写真7水稲荷神社

水稲荷神社は、藤原秀郷によって勧請されました。元は、現在の早稲田大学九号館法商研究棟にあった「富塚」の上に鎮座していたと言います。この富塚が現地名の「戸塚」の由来となっています。
江戸時代、水稲荷神社の付近には「高田馬場」という馬場が設置されました。現在の高田場駅からおよそ1.5km東に位置しています。また、堀部安兵衛の「高田馬場の決闘」でも有名な場所です。

写真8烏森神社

烏森神社は、新橋の烏森口、飲み屋街の中に鎮座しています。かつては、江戸湾の砂浜で一帯は松林であったと言います。当時は「枯洲の森」とか「空洲の森」などと呼ばれていました。その松林に烏が集まってきたことから「烏森」となりました。
将門との戦いの際に、藤原秀郷が武蔵国のとある稲荷に戦勝祈願をしたところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えました。その矢を持って戦地に赴くと、勝利を収めることができたので、お礼に一社を勧請しようとします。すると、秀郷の夢に白狐が現れて「神鳥」が群がるところが聖地であると告げます。そこで、桜田村の森にやってくると、そこに鳥が群がっていたので、社頭を建立したと言います。

写真9椙森神社

藤原秀郷ゆかりの神社では、日本橋堀留町にある椙森神社があります。こちらも藤原秀郷が戦勝祈願をしたと言われます。また、太田道灌が雨乞いのために、伏見稲荷から伍社を勧請しました。江戸時代には、「富くじ」の興行が行われ、境内には「富塚」が建てられています。現在は宝くじのご利益のあるパワースポットです。

図2太田道灌レイライン 国土地理院地図

東京には北斗七星の他に、太田道灌が作った「将門のレイライン」が存在します。レイラインとは、古代の遺跡や神社、仏閣、古跡群を地図上で結ぶと一直線になるラインのこと表します。例えば、春分、秋分の太陽の動きを動きを結ぶと、「玉前神社(上総一ノ宮)」「寒川神社(相模国一ノ宮)」「富士山」「伊吹山」「元伊勢皇大神社」「三徳山三佛寺」「大山」「出雲大社」と繋がります。
将門の兜(兜神社)と鎧(鎧神社)を繋ぐと、その中間点に将門の首塚が位置します。太田道灌は、そのラインに着目し、その線状に平河天満宮を建立しました。千代田城の北の鎮守としての平河天満宮は、後に城外へ移転しましたが、皇居の梅林坂にその名残が残っています。梅は、天満宮のご祭神・菅原道真の「東風吹かば、にほひをおこせよ、梅の花、主なしとて春を忘るな」に因むもので、社殿の周囲に植えられたと言います。

写真10平河天満宮

平河天満宮は千代田区平河町のオフィス街の中に鎮座しています。慶長12年(1607)、徳川秀忠によって現在地に遷りました。徳川家や紀州、尾張の両御三家、彦根藩井伊家の祈願所となり、宮司は単独で将軍に拝謁できるという待遇を受けていたと言います。

図3平将門

平将門は、未だ解明されていない点が多く、まだまだ謎に包まれています。一度は、関東一円をまとめ上げた将門が、猛将・藤原秀郷に敗れ、志半ばでその生涯を閉じました。しかし、その将門の生き方が、後に北斗七星という形になって、今も東京に伝えられています。一見、都市伝説的に見える将門の信仰を通して町を見てみると、思わぬ発見が存在していることに、将門の魅力があるのではないでしょうか?

おしまい。

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