江戸っ子たちのカリスマ・大岡越前と遠山の金さん①

~江戸町奉行とは…

時代劇でお馴染みの「大岡越前」と「遠山の金さん」…江戸時代の人物の中で、この二人の知名度はとても高いと思われます。歴史に興味のない人でも、一度は聞いたことのある名前ではないでしょうか?

二人の名前がよく知られているのは、もちろん、その功績によるところが大きいでしょうし、それ故に数多くの物語や芝居で描かれてきました。しかし、そんな「大岡越前(以下、大岡忠相)」と「遠山の金さん(以下、遠山景元)」は、多くの人に知られるようになったこともあり、その実像については意外と知られていない部分も多いと思われます。今回は、二人の人物像や功績、その時代背景なども含めて、お話していきたいと思います。

表1 大岡忠相、遠山景元 経歴

大岡忠相も、遠山景元も、共に旗本出身の家柄で、幕府に仕える役人として活躍しました。いずれも数多くの職を歴任していますが、二人の知名度を高めたのは、町奉行時代の活躍が大きいと考えられます。

町奉行は江戸の町政全般を担っていて、江戸庶民の暮らしを左右する非常に重要な役職でした。それだけに、町奉行に就く人は当然、相応の能力が求められますし、庶民からの期待も大きかったことでしょう。上表を見ると、二人とも40代で町奉行に就任しています。現代では、順調にキャリアを積んだ40代の社員が会社の中で重要なポストに就くようになるのと同様に、二人も、しっかりとキャリアを重ね、知識、経験、体力が最も充実する「現役バリバリ」の頃に町奉行となっていることがわかります。

図1江戸切絵図 御江戸大名小路絵図(一部抜粋) 国立国会図書館蔵
図1 江戸切絵図 御江戸大名小路絵図(一部抜粋)〈国立国会図書館蔵〉

町奉行所は二カ所あり(江戸中期三カ所の時代もあり)、「北町奉行所」「南町奉行所」が月番(一月交代)で業務を行っていました。ちなみに、南北で分けていたのは、あくまでも奉行所の位置であり、管轄地域を表しているということではありません。それぞれ設置されていた場所は、江戸城にも近く、周辺は大名屋敷が立ち並ぶ、政治の中心といったようなエリアで、その立地を見ても、町奉行所が重要な役所して位置づけられていたことがわかります。

図2 幕府 組織図1

幕府の政治体制は将軍を中心にシステム化されていました。将軍直属の要職は老中含めて七つあり、これらは大名役となっています。ちなみに、寺社奉行、奏者番は大岡忠相も晩年に就任しています。

幕閣の中では、老中が官僚システムの中での最高意思決定機関で、三万石以上の大名が就任し、通常では4人程度が選ばれていました。

図3 幕府 組織図2

その老中の下には、数多くの役職が存在します。「長崎奉行」や「佐渡奉行」といった遠国奉行がその多くを占めますが、「町奉行」も老中の支配下にあたります。町奉行の他、「勘定奉行」、それに大名役の「寺社奉行」を合わせて、「三奉行」と呼んでいました。この三職は、幕閣内でも大変重要視されており、老中指揮の元、評定所(幕府最高司法機関)で重要案件の審議を行いました。

南町奉行所跡
写真1 南町奉行所跡

町奉行は旗本役の役職で、基本的には南北奉行所に一人ずつ配属されていました。役高は3000石程度、年収およそ2~3億円といったところで、旗本が就くことのできる役職では最高位であると言えます。二人の職歴を見ると、様々な職を経験したあと、キャリアの中盤くらいで町奉行に就任しています。歴代の町奉行を見ると、50代~60代で初めてその地位を得た人物が多いので、二人が40代で町奉行になったというのは、異例の早さであると言えます。言わば、首尾よくエリートコースに乗ることに成功し、「人生勝ち組」と言う感じではないでしょうか?旗本家の嫡男として家を相続しキャリアを重ねていく中で、町奉行まで上り詰めることは「立身出世」のモデルケースであったことでしょう。次回以降後述しますが、大岡家の場合、忠相の従兄弟にあたる忠英ただふさが罪を犯してしまい、家督相続前の忠相も閉門処分を受けています。そこから幕府官僚機構に就職して、トップクラスの役職に就いていることから、忠相の努力と才覚が大変評価されたと言えます。

図4 町奉行 組織図

奉行所の組織は、町奉行を頂点に与力(25騎)、同心(100人)がその元に所属するという形です。南北の町奉行の指揮の元、彼らが江戸の治安、消防等の町政を担っていました。先述した通り、一月交代の「月番制」を執っていて、非番の奉行所は門を閉じていました。とはいっても、完全な休養ではなく、前月の案件の事務処理等に当てていたので、実質、無休状態で働いていました。町奉行の主な業務は、警察、消防の他、行政、司法、立法等、多岐にわたり、それを限られた人員で対応していたので、かなりの激務であったことが想像できます。現に、町奉行を務めていた者の内、在任中に亡くなるということもありました。大岡忠相、遠山景元が歴史に名を残すような功績を残せたのも、彼らの能力もさることながら、40代の若さがあったからということもあるかと思います。

…さて、上図を見ると、同心たちの下でも働いている人たちがいます。「岡っ引き(目明し)」「手先」「下っ引き」は町人身分の協力者たちで、与力、同心の手足となって働いていました。「半七捕物帳」等でも、よく聞く人々ですが、彼らは元々、犯罪者であった者も少なくなく、裏社会に精通していることから、与力、同心たちは彼らを上手く使って犯罪捜査に役立てていました。ただ、時として彼ら自身が犯罪の原因になってしまい、社会問題に繋がってしまうこともあったと言います。それでも、自分自身のポケットマネーを使ってまでも彼らを雇っていたことから、100万都市のダイナミックな江戸の町を守るには必要悪だったのかもしれません。

図5 江戸切絵図 築地八町堀日本橋南絵図〈国立国会図書館蔵〉

町奉行は江戸の行政等を担っていたと言っても、その全てのエリアを管轄していたということではありません。江戸の中には、大名や旗本などの「拝領屋敷」や神社、寺院の境内もあります。武家屋敷には自治権が認められていましたし、寺社地は寺社奉行が管轄しています。そのため町奉行が介入できる場所は、あくまでも「町人地」と呼ばれる部分で、上図ではグレーで塗られた土地が該当します。従って、町奉行で追っている犯罪者が大名屋敷や神社等に逃げ込んだ場合、原則として、町奉行に属する役人たちは立ち入って捕縛することはできないようになっていました。しかし、それでは、犯罪捜査のスピード感が出ず、みすみす、「星」を逃してしまうことも少なくありません。そこで、大名、旗本の私領、勘定奉行支配の江戸近郊部の農村、寺社奉行支配の寺社領などの土地に「町並まちなみ地」という条件を付けて、町奉行の介入を認めました。これは、年貢の徴収等の土地に関することは各担当の役人が対応する一方で、人別支配を町奉行の業務範囲としたものです。これによって、江戸を離れた犯罪者が江戸近郊に逃れたとしても町奉行の役人たちが捕縛することを可能にしました。

しかし、これは町奉行の負担がさらに増えたということでもあり、その分、配下の人数は増員されていないので、その過重労働は想像に難くありません。彼らが、自分のポケットマネーを使ってまでも、非公認の岡っ引きたちを雇ったのも頷ける話です。

以上を踏まえて、次回以降、名奉行・大岡忠相、遠山景元を紐解いて、彼らがいかに「町奉行」という大役を担っていったのか、見てみたいと思います。

次回に続く…