江戸っ子たちのカリスマ・大岡越前と遠山の金さん②

~町奉行になる前の大岡忠相〜

大岡忠相の活躍した江戸時代中期は幕府が開かれてから約100年が経過し、天下泰平の世の中に入っていく転換期と言える時代です。群雄割拠の戦乱の世が終わり、徳川家が江戸を中心とする新しい日本を作るために様々な政策を行いました。まず全国の街道を整備し参勤交代が制度化されると、地方から人や物が江戸へ集まるような仕組みが生まれます。また、現代の造幣局とも言える金座、銀座といった施設を江戸に設置し、幕府が経済をコントロールさせるようになりました。幕府は戦国期から進められてきた新田開発を積極的に行い、結果、幕府の石高は開府から100年で飛躍的に伸びることとなり、財政は大変潤っていたと言えるでしょう。元禄時代(1688~1704)になると上方文化が栄え、江戸、上方を中心に好景気を迎えることになりました。

ところが、元禄時代も終わりに差し掛かる頃、関東地方を襲った大震災(元禄地震)を皮切りに、宝永4年(1707)の富士山の大噴火(宝永大噴火)、その2年後には5代将軍・綱吉公が死去、次第に社会情勢が不安定になっていきます。
大岡忠相が活躍するのは、そのような「国難」とも言える時代を救うべく登場し、後に「最大の上司」とも言える8代将軍吉宗公の享保の改革を支えることとなります。

大岡忠相
図1大岡忠相

さて、時代は少し遡り、大岡忠相が誕生した延宝5年(1677)、4代将軍・家綱公の治世から5代将軍へと移行する頃になります。戦国乱世の風潮を継承した武断政治から文治政治へと転換しつつある過渡期で、幕府を中心とした中央集権国家が徐々に出来上がりつつある時代です。

大岡家は、元々、家康公の祖父・松平清康、父・広忠に仕えた名家でした。江戸幕府が寛政11年(1799)から文化9年(1812)に編纂した大名、旗本の系譜「寛政重修諸家譜かんせいちょうしゅうしょかふ」によると、大岡家は中臣鎌足から20代のちの左大臣・九条教実くじょうのりざねの後裔・忠教ただのりが三河国八名郡宇利うり郷(愛知県新城市)に居住し、「大岡」を家号としたことに始まります。

清康、広忠に仕えた大岡助勝は松平家の優秀な家臣で、享禄2年(1529)三河国吉田城(愛知県豊橋市)攻めの時には、城主・牧野伝次を討ち取るという功績を残し、広忠のいみなの「忠」の字を与えられ、「忠勝」と改めました。広忠没後は家康に仕え、永禄6年(1563)三河国一向一揆の際にも、福王忠右衛門を討ち取るという軍功を挙げています。

大岡家は松平家の忠臣として働き、忠勝以降、代々の名乗りに「忠」の字を用いることとなり、大岡家嫡男は「忠四郎」、大岡忠相が養子に入ることとなる忠世家の嫡男は「忠右衛門」を名乗っています。このように、大岡家一族は代々「忠」の字を使い、忠相も通称「忠右衛門」を名乗るのは広忠に由来しています。

伊勢神宮
写真1 伊勢神宮

大岡忠相は23歳で家督相続し、25歳で書院番となっています。その後、徒頭等を務め、36歳で山田奉行に就任しています。山田奉行とは、別名「伊勢奉行」とも呼ばれ、幕府が京都、大坂、日光、長崎等といった直轄地に置いた遠国奉行の一つです。主な職務は、伊勢神宮全般に関わることで、祭礼、造営修理、遷宮、門前町の支配等、また、伊勢志摩における訴訟や鳥羽港の警備、船舶点検といった周辺の司法、行政も担当しています。役高は1000石、当初定員は1名であったのが、元禄9年(1692)から2名に増え、一年交代で在地に赴いていました。

「神宮編年記・守相記」によると、正徳4年(1714)4月21日に忠相が伊勢に到着すると、相役の渡辺半兵衛てらすと交代しています。その際、渡辺と対談し神主に次のような指示を出しました。

神主が勤務多忙であるにもかかわらず、山田奉行に呼び出され、大した用事でもないのに、日暮れまで長時間、奉行所で待たされるのは大変である。これを改善するために、神主の代理を出して、簡単な用事の場合は、奉行所の玄関で取り次ぎの者に話して帰ることとし、公事、訴訟等の重要案件は決裁するまで玄関で待つことにする。

忠相が就任するまでの山田奉行と伊勢神主の関係性が見て取れます。忠相は慣習の中かから残る「業務の無駄」を効率的にするための新ルールを作っています。

他にも忠相の山田奉行時代の逸話は数多く残されています。
伊勢神宮は長年、紀州藩領松坂との境界争いを続けており、歴代の山田奉行は御三家である紀州徳川家の威光を恐れ、松坂側に非があることがわかっていながらも、そのままの状態にしていました。そこで、伊勢神宮側は山田奉行が交代する度に訴訟を起こしてきましたが、忠相が就任すると、また訴訟を起こしたため、両者を呼び出して糾明し、松坂側に非があるとして、訴訟の頭取3名を死罪に処しています。

他にも、紀州藩との領海争いにも忠相が介入しています。正徳元年(1711)、山田奉行支配下の熊野灘に面した谷中村で捕獲した鯨に、紀州藩領片瀬村の銛が打ち込まれていました。そこで、谷中村は鯨の売り上げの一割を片瀬村に渡したところ、一番鑓は片瀬村のものだから鯨を引き渡すよう要求。結果的に片瀬村の村民が谷中村に襲撃し、鯨を奪い家屋を破壊したため、谷中村は山田奉行に訴えました。ここでも紀州藩の威光を恐れ、訴訟は引き延ばされていましたが、忠相が奉行に就任すると、早速、谷中村の勝訴としています。
この当時、紀州藩主であった吉宗は、これらの働きぶりに感服し、後に忠相を抜擢することになったと言われます。実際に吉宗自身も、殺生禁断の地である伊勢の阿漕あこぎが浦で魚を取っていたところ、山田奉行であった忠相にその行いを諫められています。

しかし、これらの逸話は史実と異なるところがあり、実際に山田奉行が他領との訴訟を裁く権限を持っていなかったところから、フィクションであると指摘されています。恐らく、吉宗と忠相というベストコンビを裏付けるためのエピソードとして、山田奉行時代の忠相の働きをピックアップしたと言えるでしょう。

江戸城跡
写真2 江戸城跡

忠相は享保元年(1716)、普請奉行に就任しています。普請奉行の役高は2000石でした。この役職は土木工事の責任者で、石垣や堀の普請、江戸の上水管理、武家の屋敷割などを担当しています。山田奉行の役高が1000石であるのに対し、普請奉行は2000石、この間に京都町奉行、大坂町奉行(いずれも1500石)等があるので、二階級昇進ということになります。山田奉行時代の功績が認められて江戸常駐の職を得ました。

吉宗が8代将軍に就任した後の人事で、6代、7代将軍時代の「正徳の治」を主導した儒学者・新井白石と、側用人・間部詮房を解任しました。その際、忠相は解任された者の屋敷地の没収、代わりの屋敷の支給を行っています。「新井白石日記」によると、白石は神田小川町の屋敷を没収され、内藤新宿に屋敷替えをされることになりました。白石は普請奉行の忠相の元に書状を送り、享保2年(1717)正月23日に引き渡すつもりであると伝えています。そして、22日に絵図面を整えて提出し、改めて23日に引き渡す旨を伝えたところ、忠相は、「24、5日に引き渡すと言っていたので、そのつもりであった。23日と決まっているわけではない」と返事をしました。連絡の行き違いがあり、白石は「この返事不審の至り」と不満を残しています。

このように、普請奉行は幕府役人や大名の屋敷替えを始めとして、江戸の町全体のインフラに関わることを担っていたので、町の実情を知るのにはうってつけの役職であったと言えます。この普請奉行時代の経験が後の町奉行を務めていく上での素地になったことでしょう。約1年間、普請奉行を務めた忠相は町奉行に昇進し、いよいよ享保の改革の中心人物としてその手腕を発揮することとなります。

次回へ続く…