江戸切絵図を歩く~寺町四谷編
四谷は江戸城の西側に位置した甲州街道沿いの町で、現在のJR総部・中央線「四ツ谷駅」の場所には四谷御門が設置された軍事、交通の要衝でした。また、江戸初期の江戸城総構の工事により、麴町等から四谷に多くの寺院が移転してきた寺町で、甲州街道から裏に入ると現在も数多くの寺院があります。
四ツ谷駅から10分程歩くと西念寺が出てきます。天正18年(1590)徳川家康の江戸入府に従った服部半蔵正成が松平信康の菩提を弔うために剃髪出家し麹町清水谷(現清水谷公園・千代田区紀尾井町)に庵を設けたことに始まります。その後、寛永11年(1634)に江戸城外堀拡張工事で現在地に移転しました。
上図を見ると、甲州街道を挟み南側には寺院が密集しており、その中に西念寺があるのがわかります。この四谷南寺町には西念寺の他に、宝蔵院、安楽寺、勝興寺、宗福寺、妙行寺、永心寺等が寛永11年(1634)に同地へ移転しています。
徳川家康の移封以前の江戸は、小田原、河越、鎌倉等と言った諸都市に比べると、葦の繁る海辺の寒村という場所で、江戸城も関東一円を支配する大名が入るには手狭な城でした。そこで、関ヶ原合戦後に天下を取った家康は江戸城を堅牢にして天下のシンボルたるものとすべく大普請を展開します。その際に、江戸城付近にあった諸寺院は外堀の外へと移転、空いた土地に大名屋敷や旗本屋敷等を設置していきました。
西念寺の西側には須賀神社が鎮座しています。江戸切絵図には「稲荷山宝蔵院天王社」とあり、須賀神社の別当寺は宝蔵院でした。須賀神社の始まりは一ツ木村清水谷(千代田区紀尾井町)に鎮座していた稲荷神社を江戸城外堀普請のために城外に移したとされています。その後、島原の乱に際して、日本橋大伝馬町大名主・馬込勘解由が幕命によって兵站伝馬の御用をつとめた功績により、現在の四谷一帯の地を拝領しました。そこで、寛永20年(1644)日本橋大伝馬町の守護神であった神田明神の須佐之男命を稲荷社に合祀し、「四谷天王社」と呼ばれるようになりました。明治元年(1868)に別当の宝蔵院が神仏分離により廃寺となり、「須賀神社」と呼ばれ今日に至ります。
須賀神社から西へ約5分歩くと、四代目鶴屋南北作「東海道四谷怪談」にゆかりのある「於岩稲荷田宮神社」が出てきます。元々、田宮家に祀られていた稲荷神の祠が起源で、その後、東海道四谷怪談がヒットすると当社の信仰が盛んになりました。現在の四谷左門町には「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」が道を挟んで鎮座しています。
於岩稲荷田宮神社、於岩稲荷陽運寺の位置と江戸切絵図から推測される於岩稲荷の位置は北に約100mずれています。これは於岩稲荷が明治12年(1879)に火災に遭い、東京市京橋区(現東京都中央区)に移転し、戦後、当地に再建されたとありますから、位置が変わったのはこの時であると考えられます。
上図は四谷三丁目駅から新宿御苑界隈の江戸切絵図です。このあたりには四谷大木戸や玉川上水水番所などの重要な施設がありました。また甲州街道を挟んで南側には【A】内藤駿河守下屋敷(現新宿御苑)、北側には【B】百人組組屋敷等が確認できます。内藤家の屋敷地は、明治12年(1879)に宮内省管轄となり新宿植物御苑が開設されました。第二次大戦後に国民公園として一般公開されるようになりました。
内藤家は戦国時代から安土桃山時代にかけて徳川家康に仕え活躍し、江戸幕府成立後は数家に分かれます。天正18年(1590)徳川家康関東移封に同行した内藤清成が四谷から代々木村までの約20万坪の屋敷地を拝領しました。その後、信濃高遠藩初代藩主・内藤清枚(きよかず)が甲州街道の宿場開設にあたり土地の一部を幕府に返上しています。そして、元禄12年(1699)に甲州街道最初の宿場「内藤新宿」が開設されることになります。
一方、百人組とは鉄炮百人組で、伊賀組、甲賀組、根来組、二十五騎組の4組から構成され、与力20名(二十五騎組のみ25名)、与力に仕える同心が百名が所属していました。徳川家康の入封依頼、江戸の西郊にあたる大久保の場所に屋敷地そ設置して百人組を住まわせました。これは甲州街道が江戸城緊急時の将軍の退路として想定されていたため、その付近に鉄砲隊を配置したと考えられています。大久保の鉄砲隊は伊賀組、二十五騎組等と呼ばれ、関東総奉行・内藤清成に配属されます。百人組組屋敷は大久保、二十五騎の与力は自身の屋敷地内に住まわせていましたが、次第に内藤家から離れ甲州街道の北側に屋敷地を持つことになりました。従って、江戸切絵図の百人組の敷地内に「俗ニ廿五キト云」とあるのはそのためです。
江戸名所図会(天保5年・1834刊)「四谷大木戸」の本文によると、「この関にて往還の人を糺問せらる。近頃まで江戸より附け出だす駄賃馬の、荷物送り状なきを通さざりしとなり。いまもなほ駄賃馬の荷鞍なきをば、江戸宿または荷問屋等の手形を出だして通るはその遺風なり。このゆゑにや、ここの番屋は町の持ちなれども、突棒・指股・等を飾り置けり。これ往古関のありしときの遺風ならん。」と記載されています。元々、四谷大木戸は寛政4年(1791)に廃止されるまでは関所の機能があり、廃止後も名残として関所改めの形が残っていたと考えられます。
四谷大木戸奥の石垣の屋敷が高遠藩内藤家下屋敷があり、その下には玉川上水が流れているのが確認できます。
玉川上水は運用は承応元年(1652)で、羽村の取水口から四谷大木戸まで全長約43km、高低差約92mの緩勾配の素掘りの水路が流れていました。四谷大木戸には玉川上水を管理する番所が設置され、木樋、石樋の配水管によって江戸市中へと生活用水を供給する水道システムです。
玉川上水は内藤新宿と並走して流れていました。名所江戸百景で歌川広重の玉川上水には桜並木が描かれていますが、安政3年(1856)「藤岡屋日記」には、内藤新宿の土手に御用木と偽って桜並木を植樹したと記されています。ところが、この桜並木は3月に撤去が命じられて4月には取り払われてしまいました。
四谷は開発が進み当時の建造物等は残っていないものの、甲州街道から外れた寺町に江戸の雰囲気を残しています。また、江戸切絵図に記載されている高遠藩内藤家下屋敷や百人組屋敷等から、四谷が交通、軍事にも江戸の町に大きな意味を持っていたことが読み取れます。