大奥を作った名プロデューサー「春日局」③

大奥の歴史

私が江戸幕府をテーマにした講座や街歩きツアーをやっていますと、しばしばお客様から「大奥」について、こんな質問を受けることがあります。

「大奥は本当に女性しか入ることができなかったのですか?」

時代劇や映画等で描かれる大奥は、女性中心の視点で、あたかも「男子禁制」というイメージが強いと思うので、なかなか想像しにくい世界なのだと思います。上記のような疑問を持つのも頷けるような感じです。現に、大奥を完全な形で記録した文献も限られており、まだまだ解明しきれていない部分も多いので、どこか謎めいたところがあるのが、より大奥という空間に興味が沸いてくるのでしょう。
春日局が作った大奥がどのような仕組みを持ち、時代とともにどのような道を歩んできたのか…今回は、大奥にスポットを当てて、話を展開していきたいと思います。

図1千代田之大奥 節分〈国立国会図書館蔵〉

図1は楊洲周延ようしゅうちかのぶの「千代田之大奥 節分」です。この作品は、幕末の大奥の様子を描いたもので、明治期に発表されました。謎の多かった大奥を描いていることで、とても評価されています。節分では、大奥も豆まきを行っていたことがわかります。年男の留守居役が、畳の上に炒り豆で「万々歳」などの文字を書いていたようです。そして、大奥各所を「福は内」と唱えて回ると、終了するのを待って女中たちが留守居役を胴上げしていました。ちなみに、御台所のお部屋は御年寄が無言で撒いていたと言います。イベントの時は、下働きをしている人たちの方が楽しんでいたことでしょう。現在、私たちが大奥の行事を知ることのできる貴重な資料です。

図2江戸城御本丸御表御中奥御大奥総絵図〈東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

江戸城本丸は「表向」「中奥」「大奥」に分かれていました。表向は老中等の幕臣たちの執務室や公式の行事を行う場所、「中奥」は将軍のプライベート空間という性質を持っていました。「大奥」は本丸の面積の内、約56%を占め、その広さは6000坪以上、その中に約1000人近くの女性が働いていたと言います。

図3 大奥の職制(その1)

大奥には様々な役職が存在しました。身分によって就任するポジションが決められており、それぞれ「御目見以上」「御目見以下」に分かれていました。この中で最も重要なポジションとして「御年寄」があり、大奥における実質的な権力を握っていました。御年寄の采配の元、大奥を運営していたのです。また、旗本の娘が大奥入りをする際、まず「御三の間」に配属され、御年寄以下、中年寄、御客会釈、御中臈詰所の雑用を務め、御目見以上の役所に配属されました。言わば、大奥での研修期間と言ったところでしょう。御家人、町人、百姓などの娘は、基本的に御仲居以下の「御目見以下」の役職にしか配属されませんでしたが、彼女たちは決して「御目見以上」になれなかった訳ではなく、旗本家の養女という形にして大奥入りすることで、「御目見以上」に出世することは可能でした。

そして、これらの役職の中で最も鍵となるのが「御中臈」です。彼女たちの仕事は主に将軍、もしくは御台所に付いてお世話をすることで、この将軍付きになった女性から側室になるという流れが一般的です。この役職は単に能力だけでなく、将軍に気に入られる人間性、容姿なども重要になっていったことでしょう。

図4 大奥の職制(その2)

基本的に御目見以下は、料理、火の元の番、掃除など、大奥における日々の生活に関わる仕事をしていました。大奥での給料は、年俸に相当する切米と合力金、扶持(女中と部屋方の月々の食料)、湯之木(風呂の燃料)、油、五菜銀がありました。「五菜」とは、下働きをする男の使用人で、普段、外出ができない奥女中の代わりに、宿元(身元引受人)への手紙の使いや買い物などを行っていて、奥女中に雇われていました。

大奥入りすると城外へ外出がかなり制限されていて、御台所の代参として菩提寺である増上寺や寛永寺への参詣、親元や宿元へ帰る宿下がりくらいだったと言います。宿下がりができたのは、基本的に御目見以下の人のみで、勤務三年目で六日間、六年目で十二日間、九年目に十六日間、三年毎に休暇をもらえるというものでした。九年目以降は何年働いても十六日までの休みとなっています。

大奥で働く女性が必ずしも立身出世を望んでいたわけではなく、若い頃に女中奉公をすることで、その後の嫁入りに活かす目的の方が大きかったと考えられます。嫁入りするためのキャリアアップとしての手段という感じだったのでしょう。大奥で就業経験のある女性は一通りのスキルを得ていたので、とても重宝されたという一方で、品があって化粧も上手かったが、世間知らずで人情に疎いという評価があったことが興味深いです。

御中臈になると将軍の側室になるチャンスがあると先述しましたが、将軍のお手がついた女性は「汚い方」、お手が付かなければ「お清い方」と呼ばれるようになります。お世継ぎを得ると「御部屋様」、子を得たら「御腹様」と、その時々の状況によって呼称が変わりました。江戸時代を通して、将軍の正室にして生母になったのはお江与のみで、それ以外は側室の子が将軍になっています。乳児の死亡率が高かった時代、大奥が世継ぎを授かる場所としていかに重要であったのか窺い知れます。

徳川家斉
徳川家斉

側室が多かった将軍というと、十一代家斉が有名でしょう。特定できるだけでも16人の側室がいたとされ、実際は20人以上はいたであろうと思われます。家斉が授かった子供は53人(男子26人、女子27人)…これは常識をはるかに超える数字ですが、「家」によって幕府の秩序が守られていた時代、これだけの子を「用意」することが、言わば家を守るための重要な仕事でもあったのです(…とは言え、家斉が「女性好き」であったこともあるでしょうが)。

新撰東錦絵 生島新五郎之話〈東京都立中央図書館特別文庫室所蔵〉

大奥の権力者・御年寄で有名なのが、「江島生島事件」で知られている江島ではないでしょうか?江島は六代将軍家宣側室・喜世(月光院)付きの御年寄として大奥を取り仕切っていました。歌舞伎役者・生島新五郎との密会を疑われ、結果、江島は更迭、親族は死罪、遠島刑などの厳しい処罰を受けることになります。このように、御年寄は大奥全体において非常に責任あるポジションであることがわかります。

それでは、御年寄が非常に力を持っていたと言われる十代将軍家治の頃(宝暦十年~天明六年/1760~1786頃)に就任していた高岳たかおかを例にとって、もう少し具体的に見てみましょう。

高岳は宝暦の頃は上臈御年寄で、御年寄・松島に次ぐ序列二位立場の女性です。明和期になると老女※1となり、松島に変わり序列一位と絶対的な権力を持っていました。ちなみに、当時の報酬は切米100石、合力金100両…他の御年寄が50石、60両だったので、倍くらい貰っていたことになります。高岳は天明から安永に変わる頃(1770年代前半)、幕政は田沼意次派と松平定信派に分かれていましたが、年寄・滝川とともに定信の老中就任を、定信の妹・種姫が家治の養女であること理由に反対しています。

これに対し、定信派の御年寄・大崎は同じ定信派の一ツ橋治済邸を訪ねた折に、意次の御側御用取次・横田準松をいかに排斥するかを相談されています。このことからも、家治時代は御年寄が幕政の人事に深く介入していたことがわかります。大奥が力を持つようになった一番の要因は、封建社会における支配の単位が「家」であり、その家を存続させていくための機関が大奥であるということに尽きるでしょう。このように、元々、城主のプライベートな空間である「奥」を、政治における大きな「歯車」とした春日局の功績は非常に大きかったと言えます。

次回に続く…

※1上臈御年寄、小上臈、御年寄、三役の総称。武家や公家で侍女の筆頭