江戸の祭り②
花冷えの時期も終わって、いよいよ暖かく春めいてくると、江戸の町はお祭りのシーズンに入ってきます。江戸の4月は、鉄砲洲湊稲荷社や築地稲荷社(現波除稲荷神社)といった祭礼が執り行われるようになります。海側の下町では、賑やかな雰囲気に包まれていったことでしょう。
一方で、江戸の郊外であった亀戸も、4月になるといち早く祭礼を行っていました。「亀戸天満宮雷神祭」は4月1日から7日まで、別雷神、意冨加牟豆美神を本宮に祀り、雷難除けを祈願しました。そして、この日から8月末日まで雷除けの札を出します。
北野天満宮などでも雷除けのお札の授与が現在も行われていますが、これは「御霊信仰」に関係しています。御霊信仰とは、政治に失脚した者や戦乱で敗れてしまった者の霊が天災や疫病などをもたらすと考え、非業の死を遂げた人間の霊を「御霊」として鎮めるという、平安時代頃から生まれた信仰です。かつて菅原道真が、右大臣にまで上り詰めたものの、政治的権力争いに敗れてしまい、その後、太宰府に左遷され非業の死を遂げると、平安京に落雷があり清涼殿にいた多くの朝廷要人に犠牲者が出たことから、道真のたたりとして考えて、天満宮に祀りその霊を鎮めたと言います。そこで、天満宮では雷除けの札を配るようになりました。雷鳴が轟いたとき、「くわばら、くわばら…」と唱えますが、これは、京都中が落雷の被害に遭う中、道真の屋敷のあった「桑原(現中京区桑原町)」だけ、落雷がなかったことに因むと言われます。
話は戻りますが、亀戸天満宮の雷除けの札は4月から8月まで配布をされていたのですから、恐らく、雷除けの他に五穀豊穣などのご利益を求めていたのでしょう。農業との関連も考えられる興味深い信仰です。
上図は主な江戸のお祭りの一覧です。一年を通して様々な祭礼が各所で執り行われていましたが、特に6月の「山王権現祭礼(山王祭)」と9月の「神田明神祭礼(神田祭)」は「天下祭」と呼ばれ、大変な賑わいを見せていました。これに「三社祭」、もしくは「八幡祭(富岡八幡宮)」を入れて、「江戸三大祭」と称されていました。「天下祭」の山王祭と神田祭は隔年で行われ、その伝統は現在も続いています。
山王日枝神社はご祭神が「大山咋神」、相殿には「国常立神」「伊弉冉神」「足仲彦尊」を祀ります。由緒は、武蔵国の国人領主・江戸氏が山王宮を祀ったことに始まります。文明10年(1478)、太田道灌が江戸城を築造するにあたって、川越山王社を勧請し江戸の鎮守としました。そして、徳川家康が江戸城に入城すると、「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として崇敬します。秀忠の時代に、江戸城内紅葉山から現在の国立劇場付近に遷座します。明暦の大火後、赤坂の溜池を望むことのできる松平忠房の邸地を官収し社殿を造営しました。以後は、江戸を鎮護する祈願所として多くの人々に崇敬されました。
江戸で最大規模の祭礼と言われたのが山王祭で、江戸時代後期になると160余の氏子町を持ち、その地域は麴町や元飯田町と言った江戸城の西側に位置する武家地に囲まれたエリアと、日本橋、京橋といった大店の商家が立ち並ぶ商業エリアでした。山王祭がこのような大規模な祭礼となったのが寛永11年(1634)からで、延宝9年(1681)から神田祭と隔年交代となり、以後、子、寅、辰、午、申、戌の年の6月15日に執り行われることになります。
山王祭の祭礼行列は山下御門を出発し、福岡藩黒田家(現外務省)や彦根藩井伊家(現憲政記念館)付近を通り、半蔵門から江戸城内へ…その後、日本橋界隈を練り歩くと、茅場町の御旅所に入りました。
ここは現在、山王日枝神社の日本橋摂社が鎮座しており、当社のご由緒によると、
天正18年(1590)、徳川家康が江戸城に入城すると、日枝大神を崇敬。以来、御旅所のある「八丁堀北嶋(鎧島)祓所」まで神輿が船で神幸された事に始まる…
と、あります。従って、かつて茅場町界隈は海であったことが推測できますが、山王日枝神社が江戸城鎮守として、江戸開府前から家康に崇拝されていたことがわかります。
行列を華やかにする山車は、各町内によって諌鼓鶏や烏帽子狩衣姿の猿など、様々な形態のものがあります。地域によって名称が変わりますが、その起源は山岳を模して造ったもので、神様が降臨する依り代と考えられています。「依り代」とは山や岩、木そのものをご神体として考えて、そこに神様が降臨するという神道の考え方です。大神神社(奈良県桜井市)などは、三輪山を依り代とし、古来の祭祀の伝統を残しています。自然そのものを信仰の対象とする考え方は神道だけでなく仏教などでも見られます。祭りで山車を引くという考え方は、自然信仰に繋がるところがあり、神輿を町に繰り出して神様の霊威を振り撒くという考え方に通ずるところでしょう。
山車の原型は、大嘗会の「標山」に辿ることができます。令和改元後の11月14日、15日の大嘗祭における神饌と御神酒に用いられる米と栗を収穫する斉田として、悠紀地方は栃木県、主基地方は京都府に選定されたのを覚えている方も多いかと思います。その神饌と御神酒が献上される大嘗宮内に設けられる悠紀殿、主基殿の前に参拝者の目印として建てられた柱が「標山」です。「続日本書紀」巻三十一逸文・弘仁十四年(823) 十一月条によると、淳和天皇の大嘗会にあたって、近年、凶作続いているのを理由に標山を華美にすることを禁じています。この時期の標山は、鳳や麟、天老などをあしらった装飾を用いています。このように、標山に華やかな演出を入れていたことが後の山車の形に繋がっていったのでしょう。
江戸初期の山車は、京都祇園祭の影響を受けていますが、次第に江戸独自のものが誕生します。時代の変遷とともに登場する「江戸型山車」は大きく三つに分かれ、「吹貫型」「万度型」「鉾台型」とあります。上図の山車の頂上には、シンボルとも言える人形を配置していますが、「麹町七~十丁目」には「日本武尊」が「麹町十一丁目~十三丁目」の方は「雲舞猿人形」があしらわれています。他に「女ざる」や「馬のり人形」「猿田彦」と言った山車がありました。江戸型の山車は三層構造で、城門を潜る必要から、人形を二層目に格納できる仕組みになっていました。このような豪華な山車が行列を組んで何基も練り歩く様子は江戸っ子の誇りであったことでしょう。一年の内で一度だけ、江戸の町全体がお祭りムードに包まれ、威勢のいい掛け声がそここで聞こえる様子は、「江戸の華」と言える風物詩です。江戸の町を彩った祭りは、江戸文化の重要な担い手となりました。
次回は、もう一つの天下祭「神田明神」について語っていきたいと思います。
次回へ続く…