江戸の祭り①

「祭」の起源と意味

今年も4月の新年度に入り、早くも一月が経ちますが、今年は大々的にイベントを行うことが難しい状況なのが寂しい限りです。例年であれば、4月は入学式など、新たなスタートが始まって、GWを過ぎた頃になると気候も暖かくなり、各所でお祭りも開催されますが、まだ自粛ムードが漂う中、お祭りもこれまでとは違った形で行うことが想定されます。
そのような状況ですから、「江戸の祭り」というテーマで、改めて「祭り」とは何かを考えていきたいと思います。

皇都祇園祭礼四條河原之涼
図1 皇都祇園祭礼四條河原之涼〈国立国会図書館蔵〉

私たちが一般的に考える「祭」とは、氏子たちが威勢よく神輿を担いで町内を練り歩くというイメージが一般的ではないでしょうか?このようなお祭りは、年に数回、神様に日々の暮らしを感謝したり、町を疫病から守る悪疫退散を祈願したりするために執り行われます。昔から、この「祭り」の間は仕事を一旦止め、町や村全体で祝ってきました。言わば、季節ごとの行事が人と人とのコミュニティを深める役割を果たしており、そこに住む人々の団結力を促す重要な要素となっていきます。その土地ならではの習慣が生まれるのも、こうした「祭り」という行為の蓄積によるところが大きいでしょう。

それでは、各土地で人々に紡がれてきた祭り…その起源を辿っていきたいと思います。

写真1田植え 「ぱくたそ」より

稲作が日本に伝来したのが紀元前11世紀頃とされており、以来、私たち日本人は長い間、水稲すいとう栽培が生業の中心でした。この農業社会における枠組みを見ると、春に田植えを行い、秋に収穫するまで農事に従事し、収穫が終わり次の開始までは正月を中心とした神祭りの生活が多くなってきます。このように、農事に集中する期間=「ケ」と神祭りの期間=「ハレ」のサイクルが繰り返し行われてきました。

そして、「ケ」の中にも、春に収穫を祝う行事、夏には雨乞いなどの祭事が行われ、一年間のリズムはこの「ハレ」と「ケ」の連続で進んでいったと言えます。これは、「日常」である「ケ」の生活を維持していくために、「非日常」の「ハレ」を織り込むことによって、バランスを取っていたと考えられます。この「ハレ」と「ケ」の概念が、「祭り」という習慣によって紡がれていきました。

「ハレ」の語源は「晴れ」で、「晴れ着」「晴れ舞台」という言葉にも応用されています。人々は単調になりがちな生活に区切りをつけて、ハレの日が来ることを心待ちにしながら、日々の労働に耐え抜き、祭りを思いっきり楽しみました。

一方、「ケ」をずっと送っていくと、「ケ(日常)が枯れる」=「穢れる」を連想することから、ハレの日に日々の穢れを一層し、新しい日々のためにエネルギーを蓄えると考えていました。この「ハレ」と「ケ」の循環が祭りの根底に存在しており、それが各地区の独特の文化を育むことになりました。

写真2 神輿

「神輿」は祭りの代名詞と言えるのではないでしょうか?地域によっては、神輿に水をかけたり、神輿同士をぶつけ合ったり、様々なものが存在します。神輿の渡御は、祭りのハイライトで、最も見ごたえがあります。

「神輿」とは、「高貴な人が乗った輿こし」という乗り物が由来となっています。普段、神社に祀られている神様が、祭りの際に、氏子地域や御旅所にお出になるために神輿に乗ります。氏子たちが神輿を担ぐのは、神社から出た神様がその力を振り撒き、災厄や穢れを払ってくれるという意味があります。そこで、神輿を激しく揺さぶることによって、神の霊威を高めて五穀豊穣などを願います。

神輿の起源は諸説あります。その一つは日本がまだ狩猟時代であったころ、人は定住せず獲物を求めて移動をしながら生活をしていました。そのため収穫祭を執り行うときに使った祭壇は、持ち運びができるよう担げるような形となっていたのが、神輿の起源とされています。

また、「八幡宇佐宮御託宣集」によると、今から約1300年前、南九州一帯で力を持っていた隼人が律令国家に組み込まれることを拒み反乱を起こしました(隼人の乱)。この時、乱を制圧するため、武神である宇佐八幡宮に祈願をしました。そこで、朝廷はこの八幡神が乗る神輿を作らせ、鎮圧に赴いたと言います。

神輿の起源は東大寺の大仏建立と関わっています。時の聖武天皇は社会不安や疫病から国を守るために東大寺建立を計画しますが、莫大な費用がかかるため、貴族からの反対が数多く出てしまいました。そんな折、宇佐に鎮座する八幡神から「われ天神地祇てんしんちぎを率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」と協力の託宣が出されました。そこで、聖武天皇は八幡神を奈良へ遷座することにしましたが、この時、天皇が乗る輿の上に金色の「鳳凰ほうおう」を乗せた「鳳輦ほうれん」を用いました。これが、現在の神輿の原型とされています。

図2 鳳輦

ここまで「祭り」の起源を中心に、祭りの意義や神輿について見てきました。このあとは、四季折々、祭りが人々にとってどのような願いを受けて執り行われてきたか見てみたいと思います。

写真3香取神宮

4月の代表的な祭りの一つ・香取神宮御田植祭は、まさに農業との関わりの中で生まれた祭礼で、「三大御田植祭(香取神宮御田植祭:4月第1土日、住吉大社御田植神事:6月14日、伊雑宮御田植祭:6月24日)」として広く知られています。春は稲を植える季節で「始まり」を意味しています。初日は、耕田式で、拝殿前にて鎌・鍬・鋤・牛を使って田植え前の田んぼを耕す風景を模した儀式と、8人の稚児による田舞や早乙女手代による植初め行事が奏されます。2日目は田植式で、稚児や神職などが参道から御神田へと向かい、早乙女手代が田植え歌を唄いながら苗を植える姿が見られます。御田植祭は全国でも見られ、その意味は苦しい田植えを楽しくするために田植歌を歌っていた習慣と田の神を祀る農耕儀礼が結びついて祭礼となっていきました。また、一方で、社会的地位を有した権力者たちの勧農によって、その結果、広く御田植神事が執り行われるようになったとも言います。

図3 諸国名所百景 京都祇園祭礼〈国立国会図書館蔵〉

夏は疫病が流行し、神の祟りと恐れられていました。そのため、祭りも疫病退散を目的としたものが多く、代表的なものが京都の「祇園祭」(7月1日~31日)、大阪の「天神祭」(7月24日~25日)、そして江戸三大祭りにも数えられている「山王祭」(6月16日)がそれにあたります。

 夏と言えば、お盆には亡くなった人の霊や先祖の霊をあの世から呼び寄せ、霊を祀る行事「お盆」が、各地で楽しい盆踊りや“送り火”という仏教系儀式が行われます。その代表例が京都の「五山送り火」(8月16日)や長崎の「精霊流し」(8月15日)などがあります。

伊勢神宮
写真4 伊勢神宮

秋まつりは、春のお田植え祭と対になっています。稲刈りの時期に行う「新嘗(にいなめ)祭」は、米が無事に収穫できたことを神に感謝する行事で、新穀を供える祭りとして、毎年11月23日に天皇陛下が神々に豊作の感謝を伝えるほか、全国各地の神社でも祝いの祭りが開催されます。中でも神道の頂点に位置する三重県伊勢市の伊勢神宮で行われる新嘗祭と(11月23日)「神嘗(かんなめ)祭」(10月15日~17日)は荘厳な祭りで有名です。

図4 名所江戸百景 虎の門外あふひ坂〈国立国会図書館蔵〉

冬は、厳しい寒さに耐えながら魂を充実させる季節。地域によっては穢(けがれ)を落とす禊としての裸祭りが行われました。有名なものでは、岡山県の会陽(えよ)で行われる「裸祭り」(2月の第3土曜日)があります。江戸では、城北の鎮守穴八幡宮では「冬至祭」(12月22日頃)が行われます。冬至の日を境に昼がまた長くなり、陰が去り陽に復する「一陽来復」と言って縁起がいいとされました。この日授かる一陽来復のお守りをその年の恵方に向けて祀るとお金繰りが良くなると言われ、現在でも大変な賑わいを見せています。しかし寒さがさほど厳しくなかった江戸の冬は籠るという雰囲気はあまりなく、各地で火鎮の鞴(ふいご)祭りが盛大に行われました。鞴祭りは、鍛冶屋や鋳物師、彫り物師、風呂屋など火を使う商売の家で、鞴を清め祝う行事のこと。これが転じて火鎮を祈りとなり、稲荷神に詣でてお札を受け、仕事場に貼り、鞴を清めて注連縄を張り、お神酒や餅を供えました。江戸はとにかく火事が多く、そのほとんどが旧暦の2月から3月に起こった事から、江戸っ子たちにとっての冬の祈りは火鎮だったのです。ちなみに鞴祭りのミカンを食べると、風邪やはしかにかからないと信じられていたため、夕方から門前で餅やミカンをまいて近所の子どもにふるまいました。

鶴岡八幡宮
写真5

このように、「祭り」とは土地の氏神と人々の日々の暮らしを繋ぎ、密接に関わっていました。その起源は、古くは縄文・弥生時代まで遡るとも、奈良時代まで遡るとも言われます。そして、四季折々の祭礼の中で人々は様々な「願い」を神様に託すことで、土地に鎮座する神様を再認識する機会となったことでしょう。

次回は、江戸の「祭り」を通して、庶民たちがどのように行動し、文化を育んでいたのかを見ていきたいと思います。

次回へ続く…