江戸の歳時記から暮らしを見る~江戸の祭り④ 祭りで起こった事件

「火事と喧嘩は江戸の華」

江戸はとにかく火事が多くて、火消の活躍が目覚ましい様と、気が早くて派手な喧嘩が多かった様を表しているこの言葉は、気風の良い「江戸っ子」を表現しています。

写真1祭りの様子

今でも東京のお祭りは、江戸の「粋」な感じを引き継いでいて、生粋の江戸っ子たちが盛り上げる祭りにテンションが上がる人も多いのではないでしょうか?では、実際、江戸に生きる人々たちは祭りに対して、どのように思い行動していたのか…祭りをめぐって生じる人間模様を、様々な角度から見てみましょう。

百川楼・浮世伊之助 国立国会図書館蔵

「祭り」が関係する落語に「百川」が挙げられます。百川とは、明和・安永年間頃(1700年代後半)に、日本橋瀬戸物町浮世小路うきよきょうじに創業した料亭で、幕末期にはペリー一行に饗応きょうおう料理を提供したという名店です。
噺は、田舎から出てきた何も知らない男が百川の奉公人となり、客との間に起こる勘違いや取り違いがポイントとなります。百川にかなりの宣伝効果をもたらしたという程、大評判の落語でした。噺の中で、客としてやってきた魚河岸の連中が祭礼で使う神剣「四神剣」を、去年の祭りの足を始末するために質屋に入れてしまったというくだりがあります。
文化文政頃から、天下祭では幕府から百両もの助成金が出たと言われますが、江戸中を挙げての大祭となると、神輿や山車にそれ以上もの金をかけ、その意気を示していました。祭りの軍資金の調達は、町人からの寄付金が頼り…ところが、零細な暮らしをしている長屋の住民からしてみると、祭りの度に金を払うことはなかなかできません。そうなると、祭りの資金調達にはかなり苦労が伴ったと考えられ、「百川」のように大事な祭礼道具を質に入れてしまうなんてことが起こりえたのかもしれません。
江戸っ子たちが大熱狂したと言われる祭りも、実際、気分が良かったのは高額な寄付金が支払える一部の商人だけで、一般庶民たちは祭りに対して、必ずしも良い感情を持っていたとは言い難かったのではないでしょうか。当時、祭りを開催するのに当たって、前向きな人とそうでない人がいるのは、現在、オリンピックの聖火ランナーの是非が社会問題となっていますが、事情が当てはまるようにも感じます。

写真2纏

祭礼時、活躍をした人たちの中に火消人足がいます。彼ら町火消は、「いろは四十七組」に編成され、江戸の防火を担っていました。とにかく火事が多かった江戸ですから、火事場で勇ましく働く火消たちは、江戸っ子からとても慕われていました。一方で「め組の喧嘩」のように、火消たちが力士と大喧嘩という派手なトラブルも起こしてしまう程…そのような気質も含めて、江戸っ子たちが愛してやまなかったのでしょう。
…さて、寛政9年(1797)の山王祭で事件は起こりました。山王祭の麹町の神輿が小舟町にさしかかると、火消人足の「に組」と「よ組」とのあいだで口論そして喧嘩へと発展しました。しかし、これだけならよくあること…。これが大問題に発展してしまうことが起こってしまいます。

図2式亭三馬

この喧嘩を、戯作者の式亭三馬が「俠太平記向鉢巻きゃんたいへいきむこうはちまき」という黄表紙にして、寛政11年の正月に「実伝」として、版元西宮新六より刊行したのです。それには「よ組」が負けたように書いてあったから、「よ組」は怒って西宮の店と三馬の住宅を襲って破壊してしまいました。すると、これに「に組」も負けてはいない。「よ組」への対抗心丸出しにして、『俠太平記向鉢巻』を売り出している草双紙屋を2軒ほど壊してしまったのです。これを聞きつけた町奉行は双方の当事者を召喚し、それぞれの首謀者はたたきの刑罰のあと江戸払いとなりました。しかし、話はこれで終わらない。山王祭の喧嘩の現場が小舟町だったものだから、今度は、小舟町を火事の持ち場にしている「は組」が黙っていなかったのです。俺たちのテリトリーで喧嘩したのに、「に組」と「よ組」から挨拶がないというわけです。「は組」の血の気の多い者たちは、双方を懲らしめてやろうといきり立ち、それを止める穏健派の家を壊す騒ぎとなってしまいました。もちろんこの連中も町奉行から同じ処罰を受けています。もともとの喧嘩がわるいのか、それともこの喧嘩をネタに黄表紙を書いた三馬にも非があるのか、判断はむずかしいのですが、この騒動一件で、戯作者式亭三馬の名が江戸っ子たちに知れわたることになりました。今風の言葉で言うと、「ネット炎上」という訳ではありませんが、山王祭がやはり江戸庶民にとって、非常に大きい存在であったということがわかります。

図3名所江戸百景 佃じま住吉の祭 国立国会図書館蔵

それでは、次は佃島の「住吉神社」から…

明和6(1769)年3月4日、佃島・住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆・沈没。乗客三十余名が溺死する大惨事になりました。翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押込など、町役にも相応の罰が課されました。

この事件は落語「佃祭り」で古今亭志ん生などの名人によって語られました

この落語にはモデルとなった話があります。中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』の中にある「飛雲渡ひうんど」です。占い師より寿命を30年と宣告された青年が身投げの女を救ったおかげで船の転覆事故で死ぬ運命を免れる話で、落語「ちきり伊勢屋」との類似点もあります。

その後、南町奉行の根岸鎮衛(やすもり)が著書「耳嚢」巻六に「陰徳危難をのがれし事」の題名で、飛雲渡を翻案した物を掲載したのです。こちらは「ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き留められたおかげで転覆事故から逃れる」という内容で、より落語「佃祭り」の形に近くなっています。
とても悲しい転覆事故ですが、それを人情噺として再現することで、事故をより多くの人に知ってもらう効果があったでしょう。

江戸十橋之内永代橋 国立国会図書館蔵

最後は、落橋事故としては史上最悪の犠牲者を出してしまった永代橋についてです。
幕府財政が窮地に立った享保4年(1719年)に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ廃橋を決めますが、町民衆の嘆願により橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許されました。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めました。
時は下って、文化4年(1807)8月19日 、深川富岡八幡宮の12年ぶりとも30年ぶりとも34年ぶりともいわれていますが、とにかく久しぶりの深川祭に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、ついに落橋事故を起こしたのです。橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われています。
この事故について大田南畝が「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」と、歌っています。また、この事故では、南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っています。
曲亭馬琴はその話を「兎園とえん小説余禄」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いています。「橋が落ちた」と叫んでも、皆退かなかったため、一人の武士がやむなく刀を抜き、振り回しながら退くように促した。それを人々は怖がって後へ退いた、という内容です。

それでは、せっかくの祭礼が、このような歴史に残る大惨事になってしまった原因について整理してみましょう。

①久しぶりの祭礼で氏子たちの気運が盛りあがっていた。

②八幡宮本殿等の竣工を記念して寺側も盛大な祭礼を行った。

③予定していた15日が大雨で延期になり、出鼻をくじかれた人達が19日が日本晴れになり大挙して押し寄せた。

④身延山の出張「開帳」を同時に行った。

⑤将軍家の船が橋の下を通り過ぎるまで通行止めにした。

⑥通行止めを解除したときに丁度、山車が対岸に見えたため群衆は気が焦り、我も我もと橋に殺到したこと。

⑦橋は築年が経っており、老朽化が進んでいるところに群衆の重さが加わった。

これを見るだけでも、人々がどれだけ深川八幡宮の祭礼を楽しみにしていたかが伺えます。

そして、この事故も落語「永代橋」で語られています。「佃祭り」の人情噺に対して、こちらは典型的な落とし噺。時がたてば、大惨事を笑いに変える江戸っ子の逞しさには恐れ入ります。

東都霞ケ関山王祭諌込ノ図 国立国会図書館蔵

非日常の時間である「祭り」には、様々な人々の思いが交錯する独特な力があることがわかりました。それが大都市・江戸の中において大きなパワーを生み出し、文化や風習を創り出してきたことは言うまでもないことでしょう。江戸時代の祭りが持つ社会的な意義を考えてみると、いかに祭りが人々の心の中に深く根付いていることに気付かされます。コロナ禍の現代で、人が密集する祭りはまだ本格的に開催することは難しい状況ですが、祭りの歴史を振り返ることで、改めて祭りについて考えるきっかけになれば幸いです。

おしまい…

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