徳川家康は臆病者?…手堅すぎる家康の処世術とは?

小領主から大大名となった家康

長い戦乱の世に終止符を打ち、天下泰平の世を作った徳川家康。戦国乱世の戦いの中で大ピンチを潜り抜けながら、着実に領地を広げていったことは、家康の戦歴から見えてきます。三河国の小領主に過ぎなかった松平家はいつ隣国に侵略をされてもおかしくない状況から、遠江(静岡県西部)、駿河(同東部)等の東海エリアを始め、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)にもその影響力を伸ばしていきました。天正十八年(1590)、小田原合戦後は秀吉の命によって移封となり、関東一円を領有する大大名へと成長していきました。

岡崎城

松平家の所領「岡崎」は東西を繋ぐ東海道沿いに位置し、東国の大名が上洛するための交通の要衝でした。竹千代(家康)生誕時は、東に遠江、駿河を領する今川氏、西には新興勢力として台頭した尾張・織田氏に挟まれていました。竹千代の祖父にあたる清康の在世は強力なリーダーシップのもと、その支配力は他に引けを取らないものでした。ところが、清康が家臣の阿部定吉さだよしの子・弥七郎に殺害をされると、求心力の失った松平家は次第に衰退していきます。力を失った松平家は織田家の脅威に晒されることとなったため、今川家の庇護を受ける道を選び、竹千代は駿府に人質として送られることになりました。

家康の人質時代

さて、人質時代の竹千代は駿府でどのような生活を送っていたのでしょうか?

当寺の今川氏は豊富な資金力と有能な家臣団に恵まれ、駿府城下は繁栄を極めていました。その環境下で竹千代は手厚い教育を受け何一つ不自由なく順調に成長していきます。竹千代の先生となったのは、今川氏の重臣「太原雪斎」と考えられており、学問、軍学に大きく影響を受けたとされています。天文二十四年(1555)、14歳の竹千代は今川義元の加冠、関口氏純の理髪により駿府で元服、烏帽子親である義元の一字を与えられ「松平元信」と称しました。義元からの強い期待が伺えます。元信が将来的に今川氏の重要なピースとして考えられていたことは間違いないでしょう。

尾州桶狭間合戦(歌川豊宣)

今川義元の死から独立へ

しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、自体は大きく急変します。

ここで大きな存在を失った松平元康(永禄元年/1558「元信」から改称)は二つの行動を取っています。

  • 討死の報を聞いた元康は、兵糧入れで入城していた大高城から岡崎城へ帰還。
  • 主君筋であった今川氏を見限り、織田信長と同盟を結び独立の道へ。

①岡崎城について

元々、岡崎城は松平氏の居城でしたが、家康が人質となっていた頃は今川氏から城代が派遣されていました。年貢の徴収などの政治向きのことは城代が担っており傀儡化されていたことになります。ところが、桶狭間の戦い後は城代が岡崎城を捨て駿府に戻ったため「空き家」となった城に家康が入りました。その際、「捨城ならば拾はん」と語って入城したと言います。
岡崎城に帰還する前に、家康は菩提寺である大樹寺に滞在しています。ここで家康は自害を考えたと言われ、第十三代住職・登誉天室とうよてんしつによって説得されました。「厭離穢土おんりえど 欣求浄土ごんぐじょうど」(穢れたこの世を離れ、浄土に往生することを願い求める)という浄土宗の言葉を与えて思いとどまらせています。その後、家康は城代が岡崎を去るのを待ち入城しました。
幼少時に故郷である岡崎を離れた家康はいつか戻ることを夢見ていたことでしょう。「今川義元」という柱の無くなったタイミングこそまたとないチャンスで、その時機を確実に捉えたところに家康の抜かりない面が見えてきます。また、岡崎城代が駿府に逃げることも今川家の内情に精通した家康は分かっていたのかもしれません。

②信長との同盟について

岡崎城へ戻った家康は、義元嫡男・氏真に出兵するよう要求しますが、結局動くことはありませんでした。言わば、父親への「リベンジ」を行わなかったことになります。
その一方で家康にとって意外な人物からの話が入ってきました。信長娘・徳姫と家康嫡男・信康との婚姻です。この話を飲めば信長とは協力関係を築けることとなり、まだ弱小勢力であった家康にとってはとても心強い存在となります。しかし、遠江、駿河を持つ今川氏とは敵対関係になることは必至です。信長と氏真を天秤にかけてみた時に、桶狭間の戦いで義元を討ち上り調子である織田氏と、父親の弔い合戦に動かなかった今川氏の状況を見たのでしょう。本来であれば、長年の宿敵であった織田と組むこと自体家中に反対意見が出ることは火を見るよりも明らかであり、育ててもらった今川氏への恩もあります。それでも家康は信長との同盟を選ぶことを決断していることから、大局を捉える鋭い分析力を感じます。その後の家康は即座に三河平定に向け、各地に点在する諸将たちの替地を実施し配置転換を行っています。今川に代わり「織田」という大きな後ろ盾を得た家康は見事に三河を統一し着実に基盤を固めることに成功しました。

桶狭間の戦いというターニングポイントを見逃さなかった家康の眼力は潰れかけていた脆弱な組織を再興させることに成功したのは言うまでもないところです。そこには旧来のしがらみを捨て新しい関係性を築くことを選んだ決断力もさることながら、その後もスピード感を持って新体制を構築する行動力が大きいでしょう。「松平」という倒産寸前のお家が天下を窺がうほどに伸し上げた才覚を持つリーダーこそ「徳川家康」という御仁ではないでしょうか?