徳川家康三大危機!三方ヶ原の合戦がかなりヒヤヒヤだった件

戦国乱世を生きた家康

戦国乱世の当時、日本の各地で展開された「戦」。下剋上によって一介の侍が一国一城の主となれば、強力な力を持った大国が滅亡することも…戦略通りのプロセスを踏んでいたにも関わらず、家臣の裏切り、突然の荒天等の不確定要素によって沈む大名も多くいました。歴史に「タラ」「レバ」は無いにしても、もしあの時天候が急変しなければ、もし家臣が想定通りに動いてくれていれば…状況次第で勝利の行方は史実とは別の方向に動いていた戦があったことは十分に考えられます。
さて、徳川家康の初陣は17歳で、その二年後にあたる永禄三年(1560)には今川義元による織田征伐において大高城への兵糧入れを成功させています。戦場デビューから順調に戦歴を重ね、集大成とも言える関ケ原の合戦や大坂の役でも大軍を操り成果を上げました。しかし、そのような「百戦錬磨」とも言える家康にも、一歩間違えれば命を落としていたであろう戦いがありました。

武田晴信像 Wikipediaより

武田信玄の侵攻

元亀二年(1571)、室町幕府第15代将軍・足利義昭は各国の有力大名へ向けて信長追討令を発します。それに呼応する形で武田信玄は本拠の甲斐国から、家康所領の遠江、三河への侵攻を画策します。西上作戦が実行されたのは翌三年、武田軍総勢約27000の軍勢が徳川領へ向けて動員されました。信玄本隊(約22000)と山県昌景別動隊(約5000)の二手に分け、本隊は遠江へ、山県隊は三河へ侵攻します。
守る徳川隊はトータル15000程度の軍勢。また、頼みの綱である信長は近畿地方での戦いのため、まだ援軍が期待できない状況。武田隊の規模感よりはるかに見劣りする軍勢で遠江、三河を守らなければならず、局地戦ではかなり苦戦を強いられています。実際、驚異的なペースで徳川の各城が落とされ、遠江の軍事的要衝である「二俣城」の攻防戦で敗れると、信玄の部隊に徳川本拠・浜松城へ接近されてしまいます。このような中、家康は次の標的を浜松城と考え籠城戦を選択し信玄の猛攻に供えます。

ここで戦況は家康の思惑とは違う方向に動きました。

二俣城を出発した信玄隊は浜松城へは向かわず、そのまま西進をしたのです。

三方ヶ原周辺 地図

信玄の狙いは浜松城ではなく「堀江城」でした。
堀江城とは浜名湖に突き出た庄内半島北部(浜松市西区館山寺町堀江)に位置し、鎌倉時代、大沢基久が築城したと伝えられています。戦国時代に大沢氏が今川氏の傘下に入ると三河の抑えとして機能し、家康が浜松城に入ると浜名湖畔という立地を活かして、三河⇒浜松城への海上交通の拠点として重宝されました。
歴史学者・平山優氏によると、信玄の狙いは遠州灘にも水軍を派遣しており、陸海から浜松城への補給路を断つこと、家康にとって堀江城を制圧されることは危機的状況になると解釈されています。家康は信玄部隊を追撃べく、一部の家臣たちの制止を振り切って浜松城北方へと兵を勧めます。

元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖

三方ヶ原の戦い

信長援軍を加えた連合軍は「三方ヶ原台地」に到着し、坂を下り始めたことから追撃をすることを画策します。家康の中では数で劣る分、有利な戦いを展開できるのではと考えてのことでした。ところが、そこにはいるはずもないと思われた信玄の大軍が坂の上から魚鱗の陣を取り万全の体制で待ち構えていました。完全に裏をかかれた家康は鶴翼の陣を取り迎えますが、不利な形成で戦うことを強いられてしまった連合軍は信玄の軍勢に撃破され壊滅状態に陥ってしまいました。
敗走する家康は約2000とも言われる兵力を失っただけでなく、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本田忠真、田中義綱などの有力家臣たちが戦死しています。ちなみに、この時、夏目吉信は家康の兜を借り受け家康を名乗り敵中に突入し、その間に主君を逃がしたと伝えられています。浜松城に命からがらに逃げ帰った家康は全ての城門を開き「空城の計」を行います。浜松城まで追撃した山県昌景は、それを見て警戒心を抱き城内の突入を断念しました。

※空城の計:「兵法三十六計」の一つ。敢えて自分の陣地に招き入れることで、敵の警戒心を解くこと。

この戦いで信玄に誘い出された形となってしまった家康は相当困惑したことでしょう。
仮に家康が信玄を追撃しようとせず浜松城に留まっていたら…三方ヶ原での惨敗はなくその後の戦況は違う形になったかもしれません。逆に、堀江城を抑えられたことで家康軍はさらに窮地に追い込まれたということも考えられます。いずれにせよ、当時31歳の家康より20歳上の信玄の方が一枚も二枚も上手で、この戦いがその後の家康の戦略に大きく影響したと言えるでしょう。