引退したのに幕府を動かしていた?家康のしたたかな大御所政治

江戸開府後、将軍職をすぐに秀忠に譲る

慶長8年(1603)、朝廷からの宣旨が下り、徳川家康は晴れて征夷大将軍に就任する運びとなりました。「江戸幕府」という新しい政治体制の幕開けとなります。家康は盤石な基盤を作るべく10年前に中断していた江戸城下の大工事に取り掛かり、着々とその仕組みを構築していきます。これにより100年以上も続いた戦乱の世に終止符を打ち天下泰平の到来を待つばかりとなります。いよいよ将軍として「天下人・家康」の手腕が発揮されることになっていきます。
ところが、家康は将軍に就任した2年後の慶長10年(1605)、早々に将軍職を3男・秀忠に譲り、自分は江戸から駿府に移ってしまいます。時に家康は63歳…当時の平均年齢を考えると現役を退くことは考えられなくもないですが、これから新しい社会を作っていくには秀忠の経験では多少心もとなく感じるのは否めないところです。この家康の決断の意図するところを見ていきたいと思います。

戦国時代の主従関係

話は少し遡りますが、戦国時代の主従関係の根幹は【領主―家臣】という土壌の上に成り立っていました。一国を治める領主から小領主へ…さらに小領主からその土地に根付いた人たちへ…といった形でピラミッドが形成されていたことになります。しかし、その主従関係はあくまでも一代限りのものであり、領主が変わるとそこに属する者が必ずしも忠誠を貫いたわけではなかったのです。当時は、領主「個人」に対して忠義を見せていたのであって、「家」というものに対する忠義は希薄であったことになります。これが「下剋上」の遠因となっていました。このような状況下では、「有能な上司」に「有能な部下」が集まりやすい環境となり、政権を持続可能なものにすることが困難になってしまいます。現に、天下を取った織田信長、豊臣秀吉が没したあと、その政権が維持されなかったことを見ても一目瞭然です。織田、豊臣がその力を保つことができなかった原因の一つに有能な人材が離れてしまったことが挙げられるのではないでしょうか?

何故、家康はすぐに将軍職を退いたのか?

江戸城 大手門

家康が即座に政権を譲った思惑はそこにあったと言えます。秀忠に将軍職を譲ることで天下に「徳川家」を示し、以後、「家」に対して忠義を尽くす仕組みを作っていきました。将軍を頂点とした全国統治体制となり、大名は「親藩」「譜代」「外様」に大別されます。幕政に対しての権限の範囲が異なり、徳川家が日本全体をコントロールすることを可能とした体制が家康の目指した統治形態と言えます。また、家康は駿府に移り大御所となったあともその影響力を持ち続けました。主に朝廷、西国大名などの交渉役にあたり、二代・秀忠との二元政治が展開されることになります。未だ反家康勢力が残る背景の元、まだ誕生したばかりの江戸幕府を盤石なものにするための最善の策と言えるのではないでしょうか?

家康没後の幕藩体制

家康が没したのは大坂の役後の元和2年(1616)、家康の意思は2代・秀忠、3代・家光へと引き継がれていくことになります。慶長20年(1615)全国に「一国一城令」が発せられ大名統制はさらに強くなっていきますが、秀忠、家光の頃には大名の改易、転封が突出して多くなります。幕府の全国統治の障害となるのは、反幕府の大名や幕府体制の中で憂き目を見ることになった幕府直径の一門たちです。将軍は大名の領地をコントロールできる権限を持ち、幕府に対して不行跡のあった家は領地の没収、または減封を行いました。幕府の狙いは大名の鉢植え化で、大名が土地に根付かないようにすることにより、その力を弱めていくことに成功しています。

未だ、戦国の気風の残る幕府黎明期、家康は将軍職をただちに譲ることで天下を世に示しました。信長、秀吉といった絶対的君主を見ていたからこそ持続可能な政権として英断に踏み切ることができたのではないでしょうか?