せっかく造った駿府城も、すぐに移転…わずか5年で駿府を出た家康の裏事情
領土拡大とともに居城を変えた家康
徳川家康はその生涯で数回、拠点となる城を変えています。一度目は自身の生まれ故郷である岡崎城から、東への領土拡大を図るべく浜松城へ。二度目は浜松城から駿河国の中心・駿府城へ。三回目は駿府城から後の日本の中心となる江戸城へ。最後は大御所になると、再び駿府城へ戻りその影響力を発揮し続けました。家康の居城に対する考え方として、領土を広げていく中で自身の拠点となる城が移される傾向があり、これは【清須城➡岐阜城➡安土城】と居城を変えていった織田信長と共通しています。一方で、武田信玄や上杉謙信等の大名は領土拡大をしてもその居城を動かしていません。戦国大名の中で城郭に対する考え方に2つのパターンがあるとすれば、【領土拡大とともに居城を変える】パターンと【領土拡大をしても居城が同じ】パターンに分かれるのではないかと思います。
家康の居城経歴を見ていくと、岡崎城主の期間が約10年、浜松城主が約17年、第一次駿府城主が約5年、江戸城主が約17年、第二次駿府城主が約9年となり、「第一次駿府城主」の期間が他と比べ短いことがわかります。
家康が最初に駿府城主となった背景は、小牧長久手の戦い後、対秀吉の強硬路線から融和路線に転換するも重臣・石川数正が秀吉に出奔。数正は浜松城の軍事機密を隅々まで知り尽くしていたため、天正14年(1586)居城を駿府に移したと考えられます。
家康、駿府城を築城
駿府の立地は現在の静岡県の中央部に位置し、古来から東海道が通じる交通の要衝です。東国へも京の都へも出やすい条件から街道の重要拠点として重宝されてきました。家康が駿府に移った同年に、秀吉は関東・奥両国総無事令を出され、家康が関東、陸奥国、出羽国の監視を担うことになりました。秀吉にとって家康が駿府にいることが非常に都合が良かったと考えられます。。
家康は駿府城を重要拠点とするべく城郭、城下の大改造を行います。自分が人質時代を過ごした今川館の跡地に近世城郭としての駿府城を築城しました。天正13年(1585)から工事が始まり、4年後の天正17年(1589)に完成させています。
小田原征伐後、江戸へ転封
そして、天正18年(1590)秀吉による小田原北条氏征伐が始まると家康は自軍を相模国まで動員しました。
小田原攻めは圧倒的な兵力差で北条氏が降伏するという結果に終わりました。4代目・北条氏政は切腹、5代目・氏直は高野山へ配流となり、北条氏は事実上滅亡しました。
戦後の領地替えで、秀吉は三・遠・駿・甲・信の五か国を家康から召し上げ、代わりに北条氏の旧領である関東地方へ移封を命じました。この移動により実高は150万石から250万へジャンプアップしたことになります。小田原征伐では、家康は主力部隊を最前線に動員させているので貢献度に見合った褒賞と言えるでしょう。
一方で家康の居城であった駿府は、秀吉配下の中村一氏が入ります。自分が手塩にかけて築いていた駿府城は、皮肉にも秀吉一門の武将が治めることになりました。また、掛川城には山内一豊、浜松城は堀尾吉晴が入っています。それまで家康が抑えていた東海道は秀吉に取られてしまいました。京の都から離れた関東は家康にとって左遷と見る向きがあるのは、このような事情からでしょう。秀吉の目論見は、自分に次ぐ力を持つ家康を東国へ遠ざけ東北地方の大名たちの最前線に置く、そして大動脈である東海道を自分の配下たちで抑えるというもの。その領地替えは大成功したと言えます。
未開の地・江戸を一から開発
家康からすると石高が増えたとは言え、立地条件の悪い土地への移転…さらにそこは旧北条領であり、領民の中には新しい領主を歓迎しない者も多かったことでしょう。北条氏統制下の年貢率は「四公六民」で、当時の平均からするとかなり低いものでした。税率を安易に引き上げることは、領民から不満を買うことは火を見るよりも明らかで、税収をコントロールするのはだいぶ困難であったと考えられます。
このような家康にとって「未知」の土地である関東を領する居城こそが江戸城です。当時の江戸は葦が繁る湿地帯で、城郭も太田道灌が150年前に築城した中世的なものであったと言います。老朽化した城郭を拠点に馴染みのない関東を統治していかなければならないので、家康にとってはデメリットが大きい移動であったことでしょう。
ちなみに関東にはほぼ無傷で開城された小田原や古都・鎌倉等の都市がありましたが、秀吉の勧めで江戸を居城としたと言います。しかし、実際は家康が選択したと見る向きもあります。確かに、その後の江戸の発展を考えれば未開の江戸にビジネスチャンスがあったとも取れますが、小田原や鎌倉等はすでに都市として成立していたため、既得権益が根強かったことも大きいでしょう。信長が上洛しても京ではなく安土を拠点としたことに似ています。
秀吉の目論見を大きく覆した家康
天正18年(1590)当時の背景を考えると、家康を駿府から引きはがし江戸へ追いやることは秀吉にとって家康の力を抑え込む意図がありました。そして家康が発展させた駿府を自分の傘下に置くという、非常にしたたかな秀吉の戦略です。それゆえ、家康がその後、征夷大将軍となり江戸に幕府を置くことになったのは秀吉の目論見を大きく覆したと言えるでしょう。